ぼくらのヒーロー徐くんが逝った


久しぶりに大阪の実家に帰ったとき、小中学校時代の同窓生、勝美君に会った。
小学校時代の腕白は、転入してきた僕にいじわるをしたり、我が家の隣の藪にカスミ網をしかけて、小鳥をとったり、
終日、寺の境内で悪童連中とビー玉などで遊びほうけたりしていた。
中学校を卒業した後は、家業の石屋の職人になり、親の跡を継いだ。
今は仕事を退き、奥さんが早くに他界してからは一人暮らしをしている。
「徐が死んだぞ。」
同窓生の消息に話が及ぶと、老いた腕白はまずそのことを報告してくれた。
韓国人だった徐君、当時は徐村と名乗っていた。
高校を卒業してから、社会人になった彼と、夕方の電車のなかで出会ったことがある。
「いまここで仕事してるんや」
彼のくれた名刺には本名が印刷されていた。
「徐」、徐村の本名だった。
在日のコリア人だったことは小学校時代から同級生は知っていた。
大きな川の堤防下に一群れの集落があり、そこに徐の家があること、
そしてそこが在日の人びとの住んでいるところであることを、子どもらは知っていた。


徐は小学校時代、子どもたちのヒーローだった。
身体は大きく頑健、走るのは速くスポーツ万能、性格は快活陽気、腕力も勉強もよくできた。
わるがきたちは、徐君には一目も二目も置いていた。
しかし徐はボス的にはならず、みんなのリーダー的な存在であった。
小学校6年の学芸会で学年劇「野口英世」を上演することになったときのことだ。
師範学校を出て3年目に入った若き松村先生は、徐を主役に抜擢した。
徐はせりふをことごとく消化し、熱演した。
野口英世の子ども時代、いろりに落ちて大やけどを負う。
やけどは手に大きな障害を残した。
「てんぼう、てんぼう」、村の腕白連中は英世をからかい、差別する。
徐はその野口英世の悲しみを涙を流して演じた。
本当に徐は泣き、泣きながらも大きな声で迫真の演技を続ける姿に、子どもらは感動した。
あの時の子どもたちは、韓国人朝鮮人生徒に対する社会的な差別の存在はおぼろげに知ってはいたが、
生徒の中での差別は存在しなかった。
むしろ徐に対する子どもらの気持ちは、敬愛の念とでも言えるものだった。
それはその学年を担当していた教師たちの意識でもあった。
中学時代になってもう一人転入してきたコリア人がいた。
大川君、彼は勉強や運動は普通だったが遊びの天才だった。
グランドの土の上に野球盤を描き、塁上に空けた小穴にビー玉を使って遊ぶ、
「天地」を略し「ジー」と子どもらは呼んでいた遊びを彼は学校に持ち込み、大流行をさせた。
親指や人差し指を使ってビー玉を飛ばし、相手の玉をはじく。
一塁から二塁、三塁、と玉を勝ち進めてホームに帰る勝負。
転入してきた彼の名人芸は、いろいろな技を使い分け、親指ではじいた玉はサッカーのシュートのように飛んでいき、
パチーン、
相手玉を音高くはじく。
休み時間はあっちでもこっちでも、グランドに「ジー」遊びの花が咲いた。
爆発的な流行は全校生に広がり、教師たちはただただあっけにとられて眺めているだけであった。
大川君へのあこがれが、男の子たちの中に生まれた。
遊びのヒーロー大川は、一年ほどしてまた転校していった。
やがて「ジー」の流行は収まった。


後年、振り返って不思議に思った。
あのころの教師たちは数年前まで軍国主義教育を推進し、また師範学校に在学して国家主義的教育で鍛えられていた人たちであったにもかかわらず、
どうしてあのような教育実践ができたのだろう。
みんなが食べるものに事欠く時代、教師たちは、一人ひとりの子どもの尊厳、その子の個性を尊重しようとして実践していた。
教師の戦争責任を問うなかに、戦後「手のひらを返したように」という批判がある。
戦時中、軍国主義者に洗脳されていた教師が「手のひらを返した」というわけだが、
それは洗脳論で理解できることか。
いろいろな集団でも洗脳論が登場するが、実際はそんなものではない。
洗脳されていたとしたら簡単に変われないはずだ。
国家という集団、社会という集団が、権力や思想や観念に支配され、
それに構成員が同調し、同じ方向に流れていく。
同じ方向に流れていても、一人ひとりは、権力構造へのもろもろの懐疑や批判を胸底に抱き、
常に変革の因子を持った主体として、新たな生き方への希望を秘めているのだ。
権力構造の問題に気づいたとき、「手のひら」は返る。


ぼくらの「英雄」、徐は亡くなった。
ベンチャー企業を立ち上げて、庶民の中で平凡に生き、彼は亡くなった。
晩年の彼と会えなかったことを残念に思う。