一本の鉛筆


        一本の鉛筆


あの本に書かなかったことがあります。(注)
美空ひばりの歌を、武漢大学の学生に聴いてもらったことです。
今朝、NHK衛星放送の「心の旅」を見ていて思い出しました。
奈良岡朋子が、アンネの隠れた家や、アンネの友だち、
そしてユダヤ人収容所跡を訪ねる旅の道中で、
奈良岡朋子は、親しい友人だった美空ひばりを回顧します。
一緒に外国旅行をしようと約束しながら果たせなかった心残りを語る場面で、
あの「一本の鉛筆」の絶唱が出てきたのです。


日本の大学で3年間研究したことがある聴講生の朱さんは、演歌が好きだと言った。
それならと、ぼくが持ってきていたテープのなかから美空ひばりの歌を選んで、
授業の中で学生たちに聴いてもらったのだった。
歌は、「川の流れのように」と「一本の鉛筆」。
ぼくは、「一本の鉛筆」の背景を説明する。
二回生の学生たちは、まだ日本語がよく分からない。
朱さんは、学生たちにときどき通訳してくれていた。


1974年、第一回広島平和音楽祭で、日本の国民的大歌手の美空ひばりが歌った歌です。
美空ひばりは、1982年、52歳で亡くなりますが、
その前年、重病をおして、第15回広島平和音楽祭で、この歌を再び歌いました。


学生たちは、日本の被爆の実態や、その後日本の中ではぐくまれてきた平和への願いをよく知らない。
学生たちは、しんとして歌を聴いていた。
日本人の心を聴き取ろうとして。
この歌が、まだよく分からない日本語と日本を知っていく、一粒の麦になるだろう、
ぼくはそう願っていた。
思えば、ぼく自身、美空ひばりをよく知らなかった。
彼女の歌う歌も、彼女にまつわる情報も、あのど派手な衣装も、
ぼくは好きになれなかった。
素顔のひばりは先入観のひばりとは異なる、
そのことに気づくのは、ひばりが亡くなってからだった。
「一本の鉛筆」の絶唱を聴いてからだった。


奈良岡朋子は、「アンネ」を訪ねる旅に、
ひばりが海外旅行のために用意していた白いかばんを持っていった。
奈良岡は最後、アンネの墓にお参りする。
収容所跡に建てられた小さな石の墓、
アンネの写真が花と共に墓前に置かれていた。


 


     注「架け橋をつくる日本語  中国・武漢大学の学生たち」(文芸社