山へのあこがれ(一)

 
        山へのあこがれ(一)


あの大戦前後の、山にあこがれた人たちの絶望と希望の物語は、
想像するだにいたましく、壮絶であった。
「ただ、憧れを知る人のみぞ、わが悩みを知りこそすれ」
17歳のときに読んだゲーテの一節は、その後もずっと心の奥に静まって存在している。
「あこがれを知っている者だけが私の苦しみを知る」、この「あこがれ」をシュタイナーは人間の魂のなかに絶えず生きている「あこがれ」だと説いた。
十五年戦争が勃発して、山にあこがれ、ひとすじ山に向かっていた人たちの魂は、
戦争によって押しつぶされていった。


明治にはじまった日本の近代登山は、急速に発展した。
山にあこがれる人たちは、つぎつぎと困難な山にチャレンジし、初登攀の記録もつくっていった。
しかし戦争の魔手が若者たちのあこがれを断ち切る。
今西錦司、西掘栄三郎ら京大学士山岳会は、1932年、シッキムのカブルー(7337m)遠征を計画するが、いわゆる満州事変(中国東北侵略戦争)によって断念、
1936年、立教大学山岳部はヒマラヤ、ナンダコット(6860m)登頂に成功した。
その翌年、今西はK2をめざす。しかしまたも日中戦争がこれをはばんだ。
戦争が国をおおうようになってからの日本の山は人の声が絶えた。
学徒たちは戦場にかりだされた。
記憶はあいまいだが、「きけ、わだつみのこえ」戦没学徒の遺書の中にも、
たしか那須連峰三本槍岳登攀の思い出がつづられていたのがあったと思う。
祖国と家族と山に別れを告げて戦場に散っていった学生の手記。


それでもあこがれは静かに燃えていた。
1945年8月初め、戦争が終わる直前のこと、
小山義治は穂高岳の最も困難な岩場、滝谷を登っていた。
山に登る人はほかに誰もいなかった。


1945年、終戦を迎えたとたんに、抑えられていたあこがれは爆発する。
あの食料もなく、装備もなく、体力も充分でなかった時代、
栄養失調になって倒れていく人たちがいた時代に、
こんなにも過酷で、しかし夢に満ちた山行が行われていた。
1946年、全国の学生山岳部が活動を開始。
1947年、3月から4月、関西登高会の新村正一らが、雪の北アルプスを、えんえん剣岳から槍ヶ岳までの全山縦走に成功。
同じ年、7月、石岡繁雄が中学生の本田善郎と松田武雄とザイルパーティーをくみ穂高岳屏風岩中央カンテの初登攀に成功。
1948年1月、早稲田大学隊が厳冬期の北海道ペテガリ岳に、極地法を用いて登頂。


人間というのはなんといとしい動物なんだろう。
自由を得た魚が大海に出ていくように、
物資の不足、困窮をものともせず、
魂の自由を謳歌しながら、困難な山へチャレンジした、
山にあこがれた人たちの情熱を想像すると、
胸に湧くのは彼らの魂への追慕。
そしてぼくのなかによみがえってくるのは、
1955年、17歳の夏、運動靴にオヤジの古着を着て、
食うものも食わずに、
初めての北アルプス剣岳に登った記憶。