「北越雪譜」を雪の日に開く

 

 

     

 「北越雪譜」という書がある。江戸時代の越後のいろんな雪に関する情報を集めて記録された雪物語で、ときどき手に取って、古ぼけた表紙をめくる。濱森太郎が現代語に訳してあるが、さらに要約してここに書いてみる。「雪のたかさ」という文章。

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隣の宿場の六日町に住む、天吉老人は以前、妻有(つまあり)の庄に出かけた時の話として、こんな話をした。天保五年のこと、千曲川の辺りに住む人が思い立って、雪の降り始めから十二月二十五日まで、雪の高さを測ったところ、合計五十四メートル以上になったという。雪国に住む私ですら信じられない気がするが、しかし考えてみれば、十月の初雪の日からおよそ八十日、毎日降ればそれぐらいになる。

私の暮らす越後、ことに東南部の人知れぬ山や谷に降る雪の深さは、計り知れないことになるだろう。

越後高田城の大手門の広場に、高さを記した大きな柱が立っている。これを雪竿という。高さ三メートル。雪の量は、年貢その他の税を決める手掛かりとなる。天保五年の高田の積雪は、三メートルを超えたという。雪竿という言葉は、越後のこととして、俳句にもよく見える。越後では、除雪を「雪掘り」という。土を掘るように雪を掘る。掘らなければ雪は家の出入り口をふさぎ、家を埋めて閉じ込められてしまう。掘る時、木のスキを使う。「コスキ」と言う。木はブナの木を使う。ブナは粘り強く、折れにくく、軽い。雪の中で生活するには、もっとも必要な道具だ。木こりはこれを作って、里人に売る。里人で、コスキを持っていない人はいない。雪の深い所では、一家みな、屋根に上り、雪を掘る。その夜、大雪が降れば、また元通り。みんなため息をつく。

旅人は大雪で、道がどこにあるのか、野原では方角も分からなくなる。それで、里人を何人も雇って、道を踏み開かせる。その費用が数百文にも及ぶので、貧しい旅人は、道が開くまで、ぼんやり時を過ごす。健脚を誇る飛脚もこの雪道では、一日にせいぜい二里か三里に過ぎない。かんじきを履いた脚では不自由で、おまけに膝までの雪、雪国の苦労の一つである。春になると雪が固くなるので、「そり」を使って重い荷物を運ぶ。里人は荷物と一緒に「そり」に乗って、すべっていく。「そり」の大きなのを「修羅」という。便利なこの道具も雪が凍り付いた道でなければ用いがたい。里人は、凍り付いた雪道を「そりみち」という。 

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 「北越雪譜」には、雪にまつわる話がいくつも収録されている。鈴木牧之の到達した越後の原点は雪であった。彼がその著書を企ててから出版するまでに約30年の歳月が必要だったという。