養老孟司が父の死を認めた時

 

 養老孟司がかつて、「手入れ文化と日本」(白日社)に書いていた、養老さんの父の死に関する文章は、心にひたひたと迫ってくるものがある。

 

 私の父親は私が4歳の時、死んでいます。父の兄弟は10人いたが、そのうち6人が若くして死んでいた。死因は結核でした。冬が長く、雪で閉じ込められているから、一人が結核になると、たちまち感染してしまう。

 今は若い母親が子どもを亡くすということはほとんど無いと思います。とても良い社会です。しかし裏返すと、これは社会をつくっている人間の理解力が減ってくることを意味します。つまり子どもの死が、いかなるものか、理解する人が減ってしまった社会が現代社会ということになる。すると皮肉なことに、世の中が進歩すればするほど人間が愚かになっていく。

 私は、父が死んだときの風景が脳裏に焼き付いています。

 結核の療養で寝ていた父が、ベッドの上で半分起き上がり、飼っていた文鳥を放している。父はなぜ文鳥を放すのか、4歳の私には不思議でならなかった。

 後年、この風景を母に聞いた。母は、

 「お父さんが死ぬ朝だった。天気が良い朝だったから、窓際にベッドを寄せたら、お父さんは鳥を放した。亡くなったのはその晩のことだった。」

と言った。

 万葉集のなかで、鳥は死者の魂だと言われている。このような風景を印象的に覚えている私は日本人だなあと思う。母は、「お父さんは自分の死期を悟ったのかもしれないね」

と言っていた。

 

 私は中学から高校の頃、人にあいさつすることが苦手で、よく母から叱られた。人と口をきくのも苦手で、自分でも不思議だったが、そのわけに気づいたのは40代に近いころだった。あいさつが苦手なのは、父親の臨終の際に、「さよなら」と言えなかったことと関係があるのではないか、と悟ったのです。私の理屈は、父という、自分にとって親しく大切な人にもできなかった挨拶を他人にするわけにはいかない、ということでした。自分がなぜ挨拶できなかったのか、半分ナゾが解けた気がしました。

 その後、10年ほど経ち、ある日、これが正解だと思う答えに至りました。

 私が「さよなら」と父に言えたら、どうなっていただろうか。「さよなら」を言うことは、父との本当の別れを意味する。私はある意図があって、父には「さよなら」を言わなかったのではないか。4歳の子にとって、父が死ぬということは理不尽なことだ。納得がいかない。私ができたのは、ただ一つ、「さよなら」を言わないことだった。

これは未完の行為だと言えます。私は父に対して未完の行為を一つだけした。それは「さよなら」を言わないことだった。

 それは何を意味するか。

 それは、父が私の中で生きているということなのです。50歳近くなって、初めてこのことに気づきました。別れをしないことで、父との間に、果たさない仕事を一つ残す。ということは、それがある限り、父は死なないということです。私が挨拶したら、その瞬間に父は死んでしまい、私はその死を認めたことになるから、私は挨拶にやたらとこだわっていたのです。驚いたのは、父の死と、私の挨拶ができなかったことが、関連していたことに気づいた瞬間、

 「私の中の父は死んだ」

と思ったことだった。そして涙がさっと出ていました。人が死んだことを認めるのは簡単なことではありません。人が死ぬには何十年もかかります。死んでしまった人が、何十年もたってから実際に死ぬことはあるんです。

 父の死は、私の心に大きな傷を残して長いこと留まっていました。それが健康的なことかどうかわかりませんが、そのことが私に教えたことは大きいと思います。

 

 

 養老孟司さんは、私と同じ年齢だ。

 この文章に、人間というものの深淵さを感じる。

 それにしても今の世界の状況、人間の状況は何だろう。殺すこと、殺すマシーンになっている人間。