幼い子どもは魂で感じとる



「死」というものがどういうものかを教えられることなく、経験することもない幼い子どもの心に、「死」はどのように感じとられるだろう。
戸井田道三が子どもたちに書いた人生論「生きることに○×はない」(昭和53)に、こんな体験を書いている。


「たぶん四歳くらいの幼いときだったと思います。わたしは海岸の石垣の上の道をひとりで歩いていました。」


道三はぞうりをはいてぺたぺた歩いていた。なぜ一人で歩いていたのか、どこから来たのかおぼえていない。記憶しているのは、たった一人で、海岸の石垣の上を歩いていたことだった。そのときに海岸の水に女の人が浮かんでいるのを見た。それがどういうことなのか、そのとき「死」と結びつけてとらえたのかはあやしいが、その後少し大きくなってから、それを「死」と結びつけて考えるようになっていた。
遠い記憶というものはまだらになるもので、まして幼いころの記憶となると、ある一点だけが残っていたりする。四歳の道三は、貝殻のくっついた石垣に舟虫がぞろぞろはっていたこと、波がぽちゃりぽちゃりと棒杭の頭を水面から出したり沈めたりしていたことなどをおぼえている。


「わたしは恐いともおそろしいとも思いませんでした。死ぬということがどういうことかわからないにしても、そのとき、たしかに死を感じたのです。」


そしてその後、道ばたに赤子が転がっているのを見る。その記憶は、かなり詳しく、こまかいところまで明瞭に頭にのこっっていた。


「そのときの気持ち、わたしが『わかってしまった』とする気持ちには、今にいたるまで変化はないのです。では、何が『わかってしまった』のか、といえば、どうも死の正体らしいのです。
誰でも自分の死を経験的に知ることはできません。だから経験的に知ること、たとえばおしるこを食べて甘いと知り、カレーを食べて舌がひりひりすると知るような、そういう知りかたは死についてはできません。そこがたいへん大事なところで、なにかが『わかってしまった』という感じは、自分と死との関係がわかったということだったようです。それは『わからない』 ということとほとんどおなじようなことです。
あれから六十三、四年はたっています。それなのに、わたしの脳には焼きついていて昨日のことより明瞭にうかびます。」


人間の魂の部分に残った記憶とでもいえるのか、幼児期の魂が経験したことははっきりとその人の中に一生残り続ける。
道三は、もうひとつ衝撃的な記憶のことを書いている。
友だちに一つか二つか年上のおてんばな女の子がいて、ときどきいじめられたりした。泣かされて帰ってくると、母は針仕事をしていて、手を止めることなく道三の話をだまって聞いてくれた。何も言わないけれど、道三は、母が悲しんでいるということを感じ取る。


「だまって針仕事をつづけている母の悲しみが、そのときわたしにはひたひたとおしよせてきました。母がなぜ悲しんでいたかはわからないのですが、わたしには母が悲しいのだとわかり、母を悲しませてはいけないと、決心しました。」


四歳の子が、母の悲しみ、それが何なのかわからないけれど、深い悲しみを感じとっていた。
その母は結核にかかり、道三の妹を出産して一月あまり後に病院で死んでしまう。周囲は道三にショックを与えないように配慮したのか、母の死を知らせなかった。父は、母がまだ病院にいるようにウソをついていた。しかし、時間がたつにつれて、道三はおぼろげながら母は死んだのだと思うようになっていた。


「父は子どもが母の死を知る悲しみをふせごうとして、ウソを言っていたのですが、わたしはまた母の死を知ってしまったことを父に知られまいとしていました。」
「わたしはその時以来、おとなというものは、子どもを単純なものだと思いこみすぎている、単純な存在だと思うようになりました。けれどそれは父をバカにしたのではありません。父の思いやりがそうさせているのだから、わたしは父をがっかりさせたくないためにも、努力して平気をよそおっていなければならぬと思っていたのです。」


だれからも教えられなかったけれども、いつのまにか道三の頭の中に母は死んだという観念がかたまっていった。
そんなある日、二つ年上のチイちゃんと遊んでいて、チイちゃんは道三に意地悪をして泣かした。
道三は泣きながら、家の二階へ上っていった。すると、
「二階にはもうミッちゃんの母ちゃんはいないわよ。死んじゃったもん。」
というチイちゃんの声が追っかけてきた。


「一瞬、わたしの心臓は凍るような痛みを感じ、ぴたっと泣き声がでなくなりました。階段に一歩足をかけましたが、二階にあがっても、そこには泣きつく母がいないことにはじめて気がついたのです。」
「母の死の悲しみがどっとおしよせて、わたしは階段の一番下の段に腰かけ顔をおおって泣きはじめました。」


道三は泣き続けた。
チィちゃんは何の気なしに言った言葉だった。しかし、道三にとっては衝撃的な言葉だった。


「わたしが68年の長い歳月のあいだで一番つらかった言葉は、この言葉です。その後ずいぶん悲しいこと、つらいことはありましたが、この言葉ほどわたしに深い傷をおわせた言葉はありませんでした。」
「二階にはもう母がいないという事実はあまりにも本当すぎる事実でした。」
「母がいないという事実は、からかいでも悪口でもなく、動かしがたい事実として、そのままいやおうなしに承認しなければならないことでした。」


東日本の震災でも、生き残った子どもたちの魂に刻み込まれた深い深い傷がある。
戸井田道三の文章は、最後を次の言葉でしめくくっている。


「人生には越えなければならぬハードルがいくつか待ちかまえています。わたしは、チィちゃんの一言で最初の最大のハードルをそのときとびこしたのでした。」