自死というもの


 妹尾河童の小説「少年H]は作者の生い立ちを軸にして戦争の時代と戦後の時代を描いている。
 食べるのにもこと欠く暮らしのなかでも、Hの父母は行き倒れの人にその日のご飯を削って恵みを施そうとする。それにHは反抗して釜の蓋を父に投げつけ、頭に怪我をさせた。それを見た妹は、
「お兄ちゃんなんか死んでしまえ」
とHの背中をたたいて泣いた。
「そうやなあ、ぼくは死んだ方がええなあ。このまま生きてたら、何しでかすかわからん。」
 Hはそう思い、死のうと決めて列車のガード下へやってくる。そしてガード下からレールの上に頭を突き出して、列車が来たときに頭を粉砕してもらおうと考えた。
 けれども、轟音をあげて列車は頭上を通り過ぎ、それは失敗に終わった。そのときのことを小説はこう書いている。


「なんで死ねなかったんやろう?」
 ぼんやり考えているうちに、Hは自分がとんでもない間違いを犯していたことに気づいた。
 頭で死ぬことを考えたのに、いざというときに、予期せぬ激しい揺れに驚いた体中の細胞が、意志に逆らって、“生きるんだ”ということだけの一点に全力を集中したのだ。
 Hは、自分の意志など吹っ飛ぶほどの力を持った、もう一人の自分に助け出されたことを知った。そしてただ唖然としていた。この不思議な力を“ちょっと待て”という神の愛の力というものなのかと、ふと思ったが、Hは素直にそう思えなかった。
 少しずつ理解できたのは、自分が頭で考えている通りに、自分の肉体も支配できると思っていたのが大間違いだったことだ。それはとんでもない思いあがりだったことに気がついた。
 もし人にこれを伝えると、「それは潜在意識下に“死にとうない”と思う意志が潜んでいたからや。死の恐怖が自殺を回避させたんやろう」と、もっともらしく言うだろう。しかし、Hにはそんな理屈や潜在意識などということより、もっとはっきり分かったのは、病んでいる精神より、肉体の方が素直でたくましかったということだった。そしてHは、自分の“意志”という奴が、いかに不遜でバカだったかを思い知った。


 この部分を読んで、ぼくは人間のなかにある「自分」というものを思った。
 自分の肉体は生きようとする。
 自分の意思も生きようとする。
 しかし人には死を選ぼうとするときがある。それは情動だ。激しい感情が生きようとする意識をマヒさせる。暴発的感情が死へ走らせる。
 だが、その時も、自分という人間の肉体は、生きることを求めて生きようとしているのだ。

 やがて訪れる死ならば、それを従容として受け入れる。意思も感情も穏やかにそれを受け入れる。肉体も死を受け入れる。
 自然はそうなっている。