「日の移ろい」島尾敏雄

 

    海上特攻隊「震洋」の出撃寸前に、日本の敗戦がやってきて、島尾敏雄は生きながらえた。軍は解体、島尾は、現地の女性と結婚し、奄美大島の図書館長に任じられた。人生極限の変化だった。

    島尾は日記をつけた。その中にこんなことが書かれていた。

 

   1月23日

   妻が夕方、庭の草を引きながら泣いていた。ちょっと胸騒ぎがした。どうしたのかと聴いても、どうもしませんという返事しか返ってこない。妻がこっそり泣くということは尋常ではない。胸がつぶれる。おそらく私のありようが寂しい思いをさせるのにちがいない。私は自分の心をどう処置していいのか困惑しきっている。季節も人も、そのまま受け入れることができて、いずれ滅びるという考えに襲われないでいたい。当分はみんな持続するんだという確かさを感受していたい。しかし何を見ても、いずれ滅びるのだと思ってしまう。胸元に変な鳥が一羽巣くっていて、私を焦燥に突き落とすのだ。私はそこから脱け出したい。それにはまず、妻に心を開かねばなるまい。いらだちを、あらわには見せぬ鍛錬を自分に課さねばならない。

   2月27日

 関西大学の学生だと言う青年が四人来て、図書館退庁時まで話していった。聞かれるままに答えていたら、追い詰められたような気分になった。受け身ながら、軍隊を志願し、将校になったあと、特攻隊に入り、敗戦に遭遇した。なぜ死なずに戦後を生き延びたのか。そこのところがうまく説明できない。無理に答えようとすると、臆病で死ねなかった、になってしまう。何のことだかわからない。青年たちは薄く笑って帰って行った。私は玄関まで送って出たが、かなり長い道のりの間、誰も振り返らなかった。

 

 島尾敏雄は「日の移ろい」のあとがきに、こんなことを書いている。

 「1971年、私の気鬱は、もっとも絶望的な状態であった。結局4年以上かかってしまった。」

   「気鬱」と書いているが、鬱病ではないかと、ぼくは思う。島尾は「琉球弧の視点から」という著作も出している。その中に、「むかしの部下」という文章がある。

 

   「冬のある日、菅笠に地下足袋をはき、汚れた白衣に杖と振り鈴をもった男が、我が家にやって来た。瞬間、自分の目を疑った。21年前、戦時の時のS軍曹であった。彼は肉体も老い、右半身を中風でマヒさせ、表情も失っていた。彼は体が不自由になって、生活の一切を捨てて、四国遍路に出た。それから他の土地にも行き、人家の門前に立って、鈴を振り、経文をとなえて、いくらかの収入を得ているのだという。彼は妻とも別れ、子はいないようだった。寒さが耐えがたくなると、不幸な青春時代を埋めた南の島がなつかしくなり、私が名瀬にいると知って海を渡ってきたと言った、

 それから彼は冬になると、きまって島にやってきて、時折私を訪ねてきた。頭がぼけて、何もかも忘れてしまったと彼は言った。しゃがれ声は昔のままだった。私が勤め先で仕事をしている時、彼の門乞いの誦経の声が聴こえる時があった。その執拗な声と、鞭打つような強い鈴の音は、いつまでも耳を離れなくて困った。不自由な体の彼が振っているとも思えぬ、鈴の音だった。」

 

    特攻隊生き残りの、一部の元兵士が、戦後話題になったことがあった。戦友は死んでいった、自分は生き残った、家族も家も失い、希望ももてず、深い絶望と孤独のなかで、「特攻崩れ」と呼ばれた彼らは、街のなかで荒れた。