島尾敏雄と吉田満「特攻体験と自己の罪」

 

    島尾敏雄吉田満二人の対談(「新編 特攻体験と戦後」中公文庫)、その後に、鶴見俊輔の文章が加えられている。それは次のような内容だった。

 

 「ワレ果シテ己レノ分ヲ尽クセシカ」と、吉田満海上に一人浮かびつつ自らに問うとき、その分とは日本帝国臣民としての臣道の分である。自分は、少尉任官後は、日本帝国臣民としての服従義務と、人間として生まれたものの倫理とのせめぎあいの場に立たされることがない。だが彼は、効果なしと考えられる特攻作戦を、自分なりにその無効を考え抜く。それが、彼の戦争参加の極相となった。この極相を記憶にとどめ、その意味を深めるのが、彼の戦後を生きる道だった。

    沈没していく戦艦大和吉田満は海に飛び込み、波間をただよう。その時、警戒心と憎しみのこもった眼で自分を見る若い水兵が海の中にいることに気づいた。吉田満はその顔を忘れることがなかった。彼は戦後、その17歳の少年兵士の渡辺清を訪ね、対談して、お互いの戦時を比べる機会をのがさなかった。

    吉田満は、艦隊司令長官伊藤整一海軍中将が、艦隊出撃(1945年4月6日)命令を拒否し、草鹿参謀長の説得にも職を賭して反対したならば事態はどう展開したか、という反事実的条件命題を立てている。

    特攻出撃命令を拒否した場合、伊藤長官自身には、どのような変化が起きただろうか。もしこの機会を失えば、軍令部次長として多くの将兵に決死の出撃を命じてきた自分の責任を、名誉の戦死によって果たす道は残されていなかったであろう。自決のチャンスもなく万一生き残った場合は、戦勝国側から、海軍の基本作戦すべてに参画してきた罪業を問われることは免れない。そのことを覚悟しなければならなかった。戦後に実施された戦犯の処刑のような方式が、その時点でかならずしも正確に見通されたわけではなかったが、伊藤とコンビを組んで軍令部を組成してきた者たちは、A級戦犯に問われている。

    司令長官伊藤整一が終戦の日まで命を長らえていれば、A級戦犯の恥辱が待ち受けていたことは確実であったろう。

    1941年12月8日の開戦に日本が踏み切ったということ、さらにその戦争を続けるということを受け入れるならば、この無効な特攻艦隊出撃命令を受け入れるしかないというのが伊藤長官の決断だった。

    戦争に踏み切った時に成人になっていたものは、戦後生き残った者の義務として、それぞれが一枚のカードに自分のした決断を記入する必要がある、というのが吉田満の考えだった。