島尾敏雄と吉田満の戦争体験

 

 「特攻」は、映画にもなった百田尚樹作の、飛行機による特攻隊「永遠の0」が知られているが、島尾敏雄吉田満の人生に起きた「特攻」は、船による特攻であった。       「新編 特攻体験と戦後」(中公文庫)は、島尾敏雄吉田満の太平洋戦争体験をめぐる対談が、中心となっている。二人は太平洋戦争末期、「特攻」から生き伸びて戦後を生きた。

 

    島尾敏雄は、1943年、大学を繰り上げ卒業、海軍を志願して奄美大島加計呂麻島の海軍基地に配属となり、船による特攻隊180名の、「震洋」の隊長になった。水上特攻隊の「震洋」は、ベニヤ板でつくられた長さ5メートルほどの舟に、250キロの爆薬を積み、敵艦に体当たりして船を沈める戦法だった。しかし戦争末期、「震洋」部隊に出撃の機会が来ることなく、8月15日、戦争は終わった。

 

    一方、吉田満は、学徒出陣で海軍に配属され、1944年、少尉に任官して「戦艦大和」の士官になった。米軍は沖縄に上陸した。戦闘は熾烈を極める。すでに日本軍の戦闘機は消滅、「戦艦大和」は、護衛の航空部隊無しに沖縄へ出撃した。片道燃料のみの決死の「特攻」だった。沖縄に向かう海上の「大和」に、群がるように米軍の戦闘機は攻撃を繰り返した。世界一の巨艦「大和」は沈没、3000人の乗組員の9割が戦死した。吉田満海上をただよい、奇跡的に日本の駆逐艦に救助された。

                       

    島尾敏雄吉田満、二人は終戦から三十数年後、対面して、語り合う機会を持った。

 

    島尾 「(震洋で)出撃すると、万が一にも助かる可能性はない。けれど若かったから耐えられていたんですね。今ならノイローゼになっていたでしょうね。ちらっと気持ちの底をよぎった妄念はね、逃げることでした。自分で操縦しているから、どこか無人島にでも逃げていったらどうなるかなあ、と。」

‥‥‥

    吉田 「私の書いた『戦艦大和ノ最期』、あの記録はなにものかによって書かしめられたのだ、という実感がありました。あれだけ大勢の仲間が苦しみながら死んでいった。そこにはたくさんの精神的なものが埋もれている。私の場合、彼らが何のために苦しみ、何を願って逝ったのか、最近私は戦死した人たちの伝記みたいなものを書いているんです。

‥‥戦争が終わったときに、大事なことが欠けていて、それをそのまま手をつけずに、戦後の日本が発展していった。その欠落したものは、いつかは必ず問い直さねばならないときがあるんじゃないか。その思いがわだかまりとして残っています。」

 

    戦艦大和が沖縄に向かう途上、士官室に、戦時の日本にはなかった自由な言論の場が現れたという。

   「なぜ我々は出撃するのか。」

    この問題に一つの回答を与えたのは、兵学校出身の士官だった。

 

    敗レテ目覚メル ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ 散ル マサニ本望ジャナイカ

 

    生き残った吉田満は、戦後この士官の家を訪れている。戦争体験の極相を記憶にとどめ、その意味を深めるのが彼の戦後を生きる道だった。

    もし連合艦隊司令部からの沖縄特攻出撃命令を、艦隊司令長官が拒否し、参謀長の説得にも職を賭して反対したならば、事態はどう展開したであろうか、この反事実的条件命題を吉田満は立てていた。その命題は戦後の吉田満の人生に離れることがなかった。

     (つづく)