かつて私は国語教員だった。
内田樹は、2013年、国語教育について教員たちに講演をした。
「国語教育でいちばん大切なのは、『沈黙の言語』につながる回路を、子どもたちが発見することではないかと僕は思います。学校における国語教育の実際に即して言うならば、『身体で読む、身体で聴く』ということです。小説で読者が引き付けられるのは、作家の身体性です。身体を通して語られる言葉は、相手の身体にしみ入る。言語を理解し、運用する力の鍵は身体にあると思います。
大学のゼミの教材で、樋口一葉の『たけくらべ』を読んだそうです。黙読させたけれど、学生たちは、意味が分からないと言う。そこで音読してもらった。そしたら『わかる』と言い出した。読んでも意味の分からないものが、声を出して読んだら分かった。これは意味が分かったんじゃないんです。音読しているうちに、樋口一葉の息づかいや鼓動や、彼女の部屋の気温とか木机の手触りとか、そういうものがリアリティを獲得してきた、そういうことだと思います。」
「文字にもクォリアがある。クォリアとは、感覚的体験に伴う、脳が感じる質感のことです。音楽家は音の色を感じる。国語の教員は言葉のクォリアを感じているはずです。クォリアは身体的なもので、知性的にコントロールできない。人間には、そういう巨大な能力が我が身の内にあることを、子どもたちに自覚させることも国語教育の重要な課題です。
しかし今の国語教育や英語教育は、人間の持っている言語能力の底知れなさや可塑性については、ほとんど何も関心を示さない。
何千年にもわたって伝えられてきた言語は、死者たちからの贈りものでもあります。われわれはそれを受け取り、次の世界に伝えていく使命を持っています。」
かつて私は国語教員だった。加美中学二年生に、谷川俊太郎の詩「生きる」を読ませた。
生きているということ
のどがかわくということ
木漏れ日がまぶしいということ
ふっとあるメロディを思い出すこと
あなたと手をつなぐこと
‥‥‥
この長い詩、生きているということは美しいものに出会うこと、泣けること、笑えること、怒れること、愛すること‥‥
私がまず読み、つづいて生徒たちに声を出して朗読してもらった。一人一人、つづいてグループ、そして全員で朗読。朗読を繰り返し口にし、耳にしているうちに、朗読の質が変わっていった。みんなの心の中に湧いてくるものがあった。最後に感想文を書いてもらった。
純子がこんなことを書いた。
「私は反省しました。何度も死を選んだことがありました。苦しくて、悲しくて、生きているのがつらくて、だけどこの詩を読んで死ななくてよかった。死んでしまったら何もかもない。今も死にたいと思う時があるけど、生きていればきっとよかったと思う時が来る。がんばっていきたいと思う。」
由香は書いた。
「私にとって『生きる』とは
友だちと遊ぶこと
これは天国にいる時の『生きる』です
私にとって『生きる』とは
勉強や先生がいること
これは地獄にいる時の『生きる』です
私にとって『生きる』とは
父母、妹、友だち
みんながいること
これは愛の『生きる』です」
この「生きる」の授業記録は、私の著書「夕映えのなかに」(本の泉社)の下巻に書き入れている。