「心の牧場」

 エッセイストの串田孫一に「心の牧場」について書いたエッセイがある。
 <人間は心の中に何か持っている。何かというのは、喜びや、苦しみ、深い思いなどがその何かに知らず知らずのうちに結びついているようなもの。少々文学的にいえば、心の中のふるさとである。
 これは人によって当然別々であって、ある人は山、ある人は荒れている海、また若い人のうちには速さ、スピードをいつも心に抱いている人がいるかもしれない。‥‥
 私はここ十年以上、心の中に牧場がある。‥‥牧場というものが、歌のことばにあるようなロマンチックなものではないことも一応承知している。牧柵にもたれて、雲の流れを追い、そこへ時々牛の声などが聞こえてくるかぎりでは天国的な悦びも湧いてくるが、実際にそこで働いている牧夫さんの生活は決して天国的でもロマンチックでもない。
 それにもかかわらず心に牧場を、自分の内面生活のふるさととして抱いているのは、何か意味がありそうに思い、その自分のことを時々考えるのだが、どうもはっきりとは分からない。>
 そうして、串田孫一は自分の体験を思い起こす。旅の途中、牧場で草を食べている牛を眺め暮らしたこと、牧場の草原で、星を眺めて夜を明かしたこと、牧場や羊飼いを主題にした音楽をたくさん聞いたこと、たとえばヴィヴァルディの「忠実な羊飼い」のような牧場の風景が主題になっているもの、またまた農村に住んで牛と付き合ったこと、そういうさまざまなものが蓄積され、しばしばそれを思い出しているうちに、心の牧場がつくられてしまったのかと、串田は思う。
 そしてこう思う。
 <私は心のふるさとである牧場をいつまでも消したくはない。牧場経営などを夢みることはないけれど、もしもそういう機会があれば、乳を搾ることをおそわり、自分で搾った乳を飲み、その乳でバターやチーズを作って、ふだん世話になっている友人を集め、気分のいい草原にねころんで御馳走したい。そこへ、牛も連れてきて、素朴なつどいを悦びあいたいと思う。その方法は時代とともに変わってきたとしても、人間と牧場の関係は古く遠く、そして新しく、さらに未来につながっている。
 こんな牧場が、自分の仕事として創り出せたらと今も夏雲を追いながら考えている。>
 串田の「心のふるさと」に、「心の牧場」があった。現実に仕事として牧場経営をすることは容易なことではない。経営の困難さのうえに、労働の厳しさ、牧場環境の難しさ、人手不足など、日本では酪農家がつぶれていく原因は多い。
 串田孫一は、「心の牧場」とは「心の中のふるさと」だと言った。串田孫一にかぎらず、人の心のなかには、そういうものがある。
 小学生時代に時間を忘れて近所の子どもと夢中になって遊びほうけた体験の記憶もそのひとつだ。青少年時代に抱いた憧憬も心の中に生きている。少年のときに読んだ小説がひきつけたものも、心の底にある。串田と同じ山や牧場もある。ダンディの「フランスの山人の歌による交響曲」や、リヒアルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」、ベートーヴェンの「田園」を聴いたとき、それを感じる。
 17歳から、あこがれて、野を歩き、山に登った。山仲間とともに、そしてまた生徒を連れて、山々を跋渉した。子どもができてからも家族みんなで、大和路を歩き、吉野川に戯れ、足を伸ばして信濃路や奥飛騨に遊び、木曽路、白馬、乗鞍、八ヶ岳野辺山高原の牧場地帯なども散策した。
 「心のふるさと」と思えるもの、静かに心のなかで、喜びや、寂しさや、痛みなど深い感情を伴ってひそんでいる「ふるさと」。それは、生きていくその人に意識的に無意識的に影響を与える。