野の記憶    <6>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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 自然を愛した随筆家、串田孫一は、関東大震災で家は焼かれ、さらにまた、東京大空襲で焼け出されるという二重の苦難に出会った。戦後彼は大和路で一つの村に出会う。奈良県は、盆地と高原と山岳の三つの地帯でできている。奈良盆地の都市化は急激に進み、自然の残る盆地東部の大和高原にも開発の手が入り、たくさんのゴルフ場の建設が行われ、さらに大きな資本による住宅団地の建設が行われていた。串田孫一が出会ったのは、開発の手の入っていないところだった。

「紅葉の名所を避けて、野の道、丘の道を選んだ。山にさしかかれば、藁葺(わらぶき)の屋根の勾配が急で、そういう家がそれぞれに向かい合い、決して互いに背を向けるようには建っていなかった。見るものに、人のいさかいを想い起させるようなものがないのは、ほんのりと美しい。」

 人と人とがつながりあっている所では、家のたたずまいも、つながりあっている。僕の母方の実家がある中河内の村には戦後も、もらい風呂の風習が残っていた。一軒で風呂を沸かすと親戚関係にある近所の人が入りに来る。一頭の牛を共同で飼い、順に牛を使って田を耕した。牛が家に来ると、家の中にある牛部屋にいた。僕は牛部屋の藁(わら)の匂いが好きだった。だが大阪市内に近く、鉄道沿いの地域の農地は工場用地と商業用地に買われ、村の農業は消滅した。農地が金になると、叔父たち兄弟間で遺産相続を巡るいさかいが起き、心のつながりも共同性も崩壊してしまった。

 日本の大都市とその周辺は、ほぼ同じ状況で、ほしいままの開発による痛々しい傷跡が後世まで残るものとなり、散策して心が安らぎ慰められる美観は面ではなく点となった。

 イギリスの景観に憧れる日本人は多い。ところがイギリスの田園都市計画論のモデルは日本の江戸の風景だったと経済学者の川勝平太は推理した。幕末に来日したイギリス人は、豊かな自然と暮らしが一体化する江戸の美を、産業革命によって環境が破壊されたイギリスに持ち帰り、百年かけてイギリスの風土をつくった。住民は、百年後もこの美を変えないと誇る。イギリスでナショナルトラスト運動が起こったのは一八九五年。「一人の百万ポンドよりも、百万人の一ポンド」を合言葉に広く国民から基金を集め、自然環境や歴史的遺産を買い取って守る活動を展開した。「パブリックフットパス」という小道づくりも行なわれた。「人には歩く権利がある」の思想に基づき、美しい景観の小道を全国に網の目のようにめぐらし、私有地の中も歩くことができる。二つの運動は日本にも伝わってきた。

 僕はイタリアの旅でこんな言葉を聞いた。

 「イタリアには徒歩でしか通れない古代からの美しい道が多い。歩かなければ美しいイタリアは死んでしまう。」