ヒロシマ、被爆から68年



 原爆投下から68年、テレビで広島平和記念式典を見ながら朝8時15分、黙祷した。1分間の黙祷の間に、原爆投下直後の被爆者の姿が脳裏をよぎった。

 2004年に92歳で死去した山代巴という人がいた。山代巴は次のような経歴の持ち主だった。

1912年 広島県栗生村に生まれる。
1937年 労働運動家の山代吉宗氏と結婚。
1940年 吉宗氏とともに逮捕され、治安維持法違反ほう助で懲役4年の判決。
1945年 吉宗氏が刑務所で死亡。巴は仮釈放。その後終戦
     連合国軍総司令部に呼び出され、原爆投下後の広島を見る。
1949年 被爆者の実態調査を開始する。
1952年 川手健氏らと被爆者の組織づくりを進め、「原爆被害者の会」結成。
    峠三吉氏らと編さんした詩集「原子雲の下より」を出版。
1955年、第一回原水爆禁止世界大会
1965年 胎内被爆による原爆小頭症患者と家族らの会「きのこ会」設立。
1977年 備後、備北の女性たちによる生活記録出版。
1986年 長編小説「囚われの女たち」完結。
2000年 広島県三良坂町に山代巴記念室オープン。
2004年 死去、92歳

 山代巴は、川手健氏らと被爆者の組織づくりを進め「原爆被害者の会」を結成した。
 戦後、被爆の情報は占領軍の管理下に置かれていた。被爆者は被爆体験について沈黙した。被爆者には迫害や差別が襲った。被爆者が沈黙を破り、原爆禁止の声をあげるには、多くの冒険と努力が必要だった。  1951年、「原爆の子」(長田新 岩波書店)が出版され、同じ年「にんげんをかえせ」で始まる「原爆詩集」(峠三吉)が自費出版された。
 1952年(昭和27)、被爆者の組織はまだ産まれず。朝鮮戦争も続いていた。「詩集 原子雲の下より」出版が企画された。詩集出版に向けて、「原爆の詩編集委員会」がつくられ、運動にかかわる川手健ら若者たちは生活費と資金作りにアルバイトのチンドン屋をやりながら、小学校中学校を訪れ、子どもたちが被爆の体験を詩につづることを提案して回った。若者たちの話す計画に賛同し、協力を表明する教師に出会うと、若者たちは小躍りして仲間のところに帰ってくる。仲間たちもその歓喜に昂奮して、「この被爆体験の沈黙を破らねば滅亡あるのみ」と、互いに励ましあった。無名の、財力も持たない若者の、純粋な行動力が稔って詩集となり、そこに子どもたちの詩が集められた。
 それから3年がたって、第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。原爆詩人・峠三吉は第一回原水禁の大会を見ずしてこの世を去る。
 峠三吉没後、被爆者の組織作りに大きな力を発揮したのが川手健だった。
 川手健は大学の卒業を二年遅らせ、被爆者の救援活動に情熱をかたむけて奔走する。活動には激しさ、厳しさがともなっていた。それゆえに川手健は被爆者救援運動から敬遠され、遠ざけられ、アカのレッテルが貼られた。就職もできなくなった。寂しさの中で川手健は酒におぼれ、自分にも人間社会にも絶望的になる。そして遺書も残さず彼は自殺した。1960年だった。
 川手健について山代巴がこう書いていた。
「川手健の死へ道は敗北への道、けれど私は、彼が第一回原水爆禁止世界大会までに闘った足跡まで、自殺への道とともに捨て去ることはできません。1965年、広島の被爆20年を記念して川手健の友人たちと、『この世界の片隅で』(岩波新書)を編集するとき、私は川手健らとともに闘った時代の方法を継承しました。そこで得た一番の大きな収穫は、体内被曝による小頭症の子どもを持つ親たちの、20年の沈黙を破らせたことと、小頭症の子と親の会<きのこ会>を誕生させたことだと思います。私は<きのこ会>が誕生したときの『ああ、日本人は、この怒りと悲しみを20年も沈黙の底へ沈めていた。原水爆禁止世界大会を9回も重ねながら』の思いで胸が痛みました。」

 原水爆禁止運動の初期の話である。運動はその後方針の違いから分裂する。しかし、原爆投下から68年、原爆症は今も続いている。
 福島原発事故の被災者が今日の大会に参加していた。放射線の恐るべき被害は、体の奥深くに残り続ける。日本は、人類は、とんでもない間違いを続けようとしている。
 核廃絶に向けて、すべての運動は大同団結しなければならない。命を奪われた被爆者、反核運動を担ってきた先人たち、彼らの願いに応える、それは急務である。