あの少年

写真・図版

  ローマ教皇が今日来日、広島、長崎を訪問され、原爆被災地で祈りを捧げられるという。長崎で撮影された、アメリカ軍のカメラマンのとらえたこの一枚を見て、ローマ教皇は戦争の本質をとらえられた。

 遺体焼き場の前に立ち、死んだ弟をおんぶしている少年の眼とひきしめた唇。靴もなく裸足のまま。

 弟をおんぶする時、一人でやれたのだろうか。おんぶひもを弟の背中に回し、ひもを自分の胸のところで交差させ、そして後ろに持っていって、弟のお尻の下に回し、また自分の前に持ってきて結ぶ。その時、誰かが支えたのだろうか。

 この少年はその後、どうなったのだろう。

 そのころぼくもこの少年と同じ年齢だった。広島、長崎につづいて、大阪にも原爆が落とされたていたら‥‥、と想像する。大阪大空襲はあの年、3月から始まって、日を置きながら8月15日の朝まで続いたのだ。ぼくは3月11日の空襲で空を焦がして燃える大阪を目の間に見た。そして疎開をした。

 広島、長崎の原爆に至るまでに、東京も焼け野原になり、全国の都市が空襲の惨禍に見舞われた。日本の息の根を止める原爆は、戦後のアメリカの世界戦略を考えた打算的計略だった。

 強大な軍事力をもてば、「敵」は「虫けら」になる。日本軍のやったことも同じだ。一万メートルの上空の爆撃機から見れば、下界の「敵地」の人間はウイルスのごとし。核兵器の性能が進化し、ボタン一つで「敵」に向けてミサイルが飛ぶ。地球に農薬を撒くように、根こそぎ命を滅ぼす。

 人間の地獄、今も目前にある。