日本が戦争をしたことを知らない人

 

    半藤一利さんが嘆いた、「日本が戦争をしたことを知らない人が、今の日本にはいっぱいいる」という言葉、それをどう理解したらいいか。ほんとうに知らないのだろうか。

    アジア太平洋戦争の体験は今も日本人の記憶の中に残っているはず、高齢者には戦争体験者が生き残っているではないか。日本兵・軍属の戦死者は240万人、そこには70パーセントの餓死者が含まれる。日本列島はアメリカ軍の焦土作戦が襲い、原爆、空襲、沖縄戦などで民間人の死者は70万人を超える。焼かれた家屋は240万戸以上、そして1945年8月15日、日本は無条件降伏を受け入れ、戦争は終結した。

    この悲惨な体験の記憶は風化しつつも日本人の中に深く残っているはずだ。日本軍の侵略を受けた国々の人々には、被害の記憶が残っており、それが今も噴き出すことがある。韓国の慰安婦問題もその一つだ。

    毎年、ヒロシマナガサキでの慰霊は行われ、放送もされている。戦争の実態を伝える映画やTV番組もある。アニメもある。沖縄に巨大な米軍基地があり、本州にも基地があるのは、戦争の結果だ。

    戦争を証言するものがあるにもかかわらず、「日本が戦争をしたことを知らない」と言う若者がいるとしたら、何故?

 「日本が戦争したことは知ってはいるが、過去のこと、忘却の彼方だ」ということだろうか。若者は、自分の認識、自分の知性、自分の精神で、日本の戦争をとらえていないのか。学校でも日本の戦争について教えられたことはない。真剣に考えたこともない。

    内田樹の指摘はこうだ。(「街場の戦争論」)

    「終戦記念日靖国神社を参拝する政治家たちは、『中国、韓国に対する謝罪は済んだ。いつまでも戦争責任を言われるのは不快だ。』と言う。この考えは理解できない。彼らは自分たちのことを、大日本帝国臣民の正当な後継者だと思っているなら、死者たちに負わされた『責任』の残務を進んで我がこととして引き受けるはずだ。ところが彼らは、もう謝罪は終わったと、死者の負債の引継ぎを拒否する。そういう者たちに『喪主』の資格はない。  

    あの戦争の実態とその責任をぼかして、ネグレクトしてきた政治家たち。彼らは十五年戦争を自らの問題として考えることが無かった。」

だから日本国憲法をお飾りにし、その精神を空洞化する。そういうことなのだろうか。

 

    「戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか」(朝日選書 1994年出版)は、6人の学者の考察である。そこに戦後の東京裁判の結果、東条英機ら7人の被告が処刑された時の新聞の社説が取り上げられている。

    「ニュールンベルク裁判(ドイツ)も東京裁判も画期的な意味を持っていた。それは人類の平和を維持するための新しい道義的基準に照らして行われたものであるとともに、将来この基準がより明白に確立されるための段階となるべきものであった。‥‥この段階がもし将来にわたって画されないならば、裁判の意義はおそらく歴史的評価の上で半減されるだろう。裁くものは歴史的評価においては、評価を受ける者の立場に置かれる。広く言えば全人類が、またこの裁判の原告側に立った連合諸国が、将来の歴史においてになう責務は真に大きい。」

    そして、ドイツのヴァイツゼッカ―大統領の演説を紹介していた。

     「過去に眼を閉ざす者は、結局のところ現在にも目を閉ざす」と。

    われわれはいかにして、戦争、侵略、人権抑圧のない世界を築くか、今われわれは、「未来責任」問題として考えねばならない時代に突入している。「戦争責任論」は、国を超えた「人間としての権利」という理に依拠するほかはない。

    「日本が戦争をしたことを知らない人が、今の日本にはいっぱいいる」

    半藤さんの嘆きの意味するものは何か。

 

    5月3日は憲法記念日日本国憲法は、画期的な戦争放棄を宣言している。

    第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

    ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。