民謡・安曇節



 ぼくが安曇節を歌い出したのは18歳のときだった。信州の山に登るようになってこの歌を知った。どこで知ったのか覚えていない。聞いて覚えたものを自己流で山で歌った。大学山岳部の合宿やコンパでも歌った。こういう民謡は何が「正調」なのか、よくわからない。ぼくは「正調」なんてお構いなしに、いい気分になって、吉田流で朗々と歌っていた。


   寄れや寄ってこい 安曇の踊り 
   田から町から 田から町から 野山から 
   野山から 野山から チョコサイコラコイ


   安曇踊りと 三日月様は 
   次第次第に 次第次第に まるくなる
   まるくなる まるくなる チョコサイコラコイ


   何か思案の 有明山に 
   小首かしげて 出たわらび
   出たわらび 出たわらび チョコサイコラコイ
 

   聞いて恐ろし 見て美しや
   五月野に咲く 五月野に咲く 鬼つつじ
   鬼つつじ 鬼つつじ チョコサイコラコイ
      (ぼくは「五月野」を「安曇野」と歌っていた)


   一夜穂高の 山葵となりて 
   京の小町を 泣かせたや
   泣かせたや 泣かせたや チョコサイコラコイ


 歌は何番もつづいていく。歌う人が自分で新たに歌詞を加えたりする。もともと安曇野の民謡としてうまれたものだろうが、全国から日本アルプスに登りに来てこの歌が気に入った人は、歌詞をオリジナルに創った。こんな歌詞もある。


   白馬(しろうま)七月 残りの雪を
   割りて咲き出す 割りて咲き出す 花の数
   花の数 花の数 チョコサイコラコイ


   岩魚(いわな)釣る子に 山路を問えば
   雲の彼方を 雲の彼方を 竿で指す
   竿で指す 竿で指す チョコサイコラコイ」


   ザイルかついで 穂高の山に
   明日は男の 明日は男の 度胸試し
  (繰り返し部分省略)


 「安曇節」は、長野県北安曇郡松川村の榛葉太生(しんは ふとお)が、1923年(大正12年)に創作したものだという。それが信州を代表する民謡となり、今では松川村無形文化財になっている。松川村の小学校でもこの歌を教えるそうである。現在、安曇節の歌詞は、松川村教育委員会に保存されているものだけでも五万首を超え、一説では十万首以上あるというから驚嘆する。この歌が信州以外の人びとにも広がったからだろう。
 ところが、ぼくも愛したこの民謡が、安曇野市に移住してから聞いたことがない。盆踊りにも登場しない。地元の盆踊りで歌われているのは、地元とは関係のない歌ばかり。穂高地区の盆踊りでは、ぼくの家まで聞こえてくるのは「穂高音頭」のようなもので、歌曲「早春賦」や童謡「鐘の鳴る丘」のメロディを組み込んでいる。
 「安曇節」が歌われない。踊られもしない。どうしてなのか、と地元の人にきくと、
 「昔はそれで踊ったことがあったけれどねえ。今はあれは松川村のものだからねえ」
という答えが返ってきた。「あれは松川村の歌だから、隣村のものが歌うのは遠慮した方がいい」という意識があるのかもしれない。しかし信州の自然や山が好きな、全国の多くの人たちは、「安曇節」は信州の歌、山の歌として愛している。山で歌われていた歌は、シンプルで素朴で歌いやすい。歌いたくなる歌になっている。
 「安曇節」が地元では歌われない。すたれている。これはおかしいじゃないか、とぼくは折に触れ主張している。
 歌というものは、境界のないものだ。どこで生まれたものであっても、歌は歌う人の心に伝わり、その人のなかから声となって生まれるものだ。所有されるものでも所有できるものでもない。村境も県境も国境も関係ない。アイルランド民謡もドイツ民謡も、ロシア民謡も日本人は愛唱している。日本各地で九州の炭坑節で踊っている。ソーラン節で踊っている。
 「安曇節」が歌われないのは「正調」が難しいからということもあるかもしれない。「正調」ということについては、民謡に「正調」があるのかという根源的な問いがある。生活の中で、労働のなかで歌い継がれてきた歌には、無数の曲調の変化があって当たり前、だから「安曇節」も異なる曲調がたくさんあり、歌詞は何万と生まれた。
 ぼくは、この「安曇節」を歌うことを、復活させたいと思っている。まず、地元コーラスでやれないかと考えている。合唱できる歌にして歌いたい。歌に垣根はない。垣根は人間の心がつくる。垣根が対立や疎遠を生む。
 暮らしの中の歌ということでは、現代日本人は暮らしの中で歌わなくなった。受身的に聴くことは多いが、歌わない。カラオケのように場があれば歌うが、暮らしの中で、仕事のなかで、はたまた家族や友人と、隣近所や村の人たちと歌うことはない。昔はもっと歌っていた。歌が人と人との心をつないだ。現代の、内へ内へとこもっていく生き方には、心の解放はない。生活の中で歌わない、歌えない、それはなぜか、これは現代の重要なテーマだと思う。
 中国の少数民族の村には今も村人たちの歌声が流れているところがある。アイルランドの家族にも、イタリアの山岳地帯の村でも、バルトの国々の暮らしにも、みんなで民謡を歌う文化が今もある。
 「安曇節」で調べてみると、こんな歌詞もあった。(繰り返しの部分は省略)。


○音頭とりましょ 仰せとあれば 岳の峰まで(西の山まで) 響くほど
○花に焦がれて 白馬登り 残る白雪 踏み分ける
○もとはアルプス 雪消のしずく 末は越後の 海となる
○誰か行かぬか 高瀬の奥(いり)に 独活(うど)や蕨の 芽を摘みに
○岳の黒百合 咲き出す頃は 安曇娘も 日に焼ける
○槍を下れば 梓の谷に 宮居涼しき 神垣内(かみこうち)
○夏も涼しや 木崎湖行けば 岳の白雪 舟で越す
日本アルプス どの山見ても 冬の姿で 夏となる
○安曇六月 まだ風寒い 田植布子に 雪袴
○秋の安曇野 月かげ落ちて 鳴くは鈴虫 夜明けまで
○登る常念 豊科口の 一の沢辺は 夏桜
○月と一茶で 名の出た信濃 今じゃアルプス 上高地
○安曇大町 借馬市場 証もとらずに 馬貸せる
○安曇名物 穂高の山葵 黄金白銀 砂に湧く
○小梨平で ひらいた恋は 花のお江戸で 実を結ぶ
○山の奥でも 真夏の頃は 訪ね生きたや 上高地
○嬉し恥ずかし 大町リンゴ 紅い顔して 主を待つ
○穂波豊かに 黄金の風が 安曇十五里 吹き渡る
○ござれ紅葉の 色づく頃は お湯をたずねて 高瀬谷
○昨日四谷で 今日黒菱で 明日は五竜か不帰岳か
○鳥も止まらぬ 滝谷尾根で 若き情熱を 燃やしけり
○槍で別れた 梓と高瀬 めぐり逢うのが 押野崎
○まめで逢いましょ また来る年の 踊る輪の中 月の夜に



 <「安曇節」は、松川村の属する安曇野における土着の唄で、古くから唄われていた仕事唄を活かし、榛葉太生が創作した。さらにこれをアレンジして1925年に正調安曇節を発表した。創作者本人だけでなく住民によっても創作活動が行われた結果、レパートリーは数万を数える。1983年に正調安曇節が村の無形文化財に指定された。作詞、作曲は専門家に頼らず広く地域から募り、踊りも有志や村の人々と知恵を絞りながら創作された。男女差別が厳しく、女性が文芸活動に参加しにくかった時代に、農村の女性が歌詞づくりの主役となった。唄、曲、踊りと全てを地域の人が考え、創られていった「民衆のための民謡」であったという点で、他に例を見ない民謡である。>
 このような主旨の、安曇節の歴史がネットのなかにあった。