郷に入れば‥‥

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「郷に入れば郷に従え」 

 そうではあるけれども。

 

 居住区の鎮守は、諏訪神社

 昨日は、地区の公民館で、自治会費である区費の納入と、神社費の納入の日だった。

 ここに住んで15年余、「郷に入れば郷に従え」で、五、六年ほどは神社費を納入してきた。

 移住してきた年、神社の清掃があると回覧板で読んで、近くに見える神社の森に、箒を担いで出かけた。ところがそこは、居住区の氏神さんではなく、隣の穂高地区の神さんだった。いったい私の居住区の神社はどこにある? 聞けば、神社は居住区にはなく、下って行って、広域農道を越え、少し行った下の区にある、とのこと。歴史的には、その神社が居住区の鎮守さんだと。

 「この地区に住めば、氏子になる」と聞いた。

 けれど、生活の場から隔たったその神社へは、お参りに行くこともなく、散歩に出かけることもなく、自分の心から隔たった「よそ」の神社のままだ。氏子意識は全く生まれてこない。

 「郷に入れば郷に従え」

 昔からここに住んでいる人たちと共に生きていくのなら、先住民に「合わせる」ことも必要だ。そう思って神社費も納め、一度は祭りも見に行った。

 けれど、形だけ従うことに、納得がいかなくなってきた。

 さらに、憲法20条の「信教の自由」の問題が、自分の心の中でうごめく。奈良に住んでいた時は、近くに古い歴史の、由緒ある神社があったが、氏子になるのは自由意志で、自治会費と一緒に神社費を徴収するというのはなかった。

 私の居住区自治会も、神社費の納入を強制はしていない。神社費納入の通知書は送られてくるけれど、それは便宜的なものだと理解する。だが、人によっては、神社費は義務だと思って納入している人もいるかもしれない。

 しかし、信仰しても信仰していなくても、神社は歴史的な文化財だ。それが、守られなかったらどうなる。修理したり森を守ったり、費用はかかる。だから鎮守の森を地域社会の文化財だと考えるべきだ。そういう思いもある。

 はたまた、日本の社会には、神道の縦のつながりがあり、それが日本会議など政治の世界につながっている面もあるから、安易に考えると危険な面もある。

 信仰ということでは、私は特定宗教を信仰していない。だが、心の世界では、キリスト教の聖書も読むし、仏教の書も読む。寺院に行けば、仏を拝む。

 

 数年前から、神社費は納めないことにしている。私の心がそう決めている。

 昨日も、公民館の一部屋で納入することになっていて、マスクをして部屋に入り、自治会費を納めた。が、その隣に座っている神社費の係の人には、神社費は納めなかった。毎回この時、心の中にちょっと複雑なものが動く。