小林多喜二のお母さんへ

 

    「死刑囚」袴田さんの再審が確定した。

     57年間、無罪への道は長かった。袴田さんは今、87歳。ほぼ一生が冤罪を訴える 裁判闘争だった。強力な助っ人はお姉さんだった。そして支援者だった。

 

 かつて、壷井繁治という詩人がいた。彼は戦後すぐの1946年に「二月二十日」という詩を作った。その詩には、「小林多喜二のお母さんへ」というサブタイトルはが付けられていた。

 壷井繁治は、日中戦争直前の1930年、33歳の時に、思想を取り締まる治安維持法によって検挙され、刑務所に入れられた。4年間、獄中にいた。その間の1933年に、「蟹工船」の作者、小説家・小林多喜二特高警察にとらえられ、署内ですさまじい拷問を受けて、虐殺された。

 1945年の敗戦後、壷井繁治はその事実を知り、「小林多喜二のお母さんへ」という詩を書いた。長い詩である。その一部分をここに書く。

 

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 小林のお母さん

 あなたの息子が殺されてから 12年たちました

 あなたの息子が警察につかまって

 24時間たたぬうちに殺されたことを知った時

 ぼくは牢屋につながれていました

 あなたの息子が どんな死に方をしたか

 あなたの息子が どんな殺され方をしたか

 ‥‥‥

 ある日 面会に来た妻が

 立ち会う看守の眼をぬすんで ちらっと見せた紙切れに

 「コバヤシコロサレタ」

 ただ それだけのことを知ったきりです

 お母さん

 あなたは どんな思いで その知らせを受け取りましたか

 どんな思いで あなたの息子の無惨なしかばねを 抱きかかえましたか

 あなたは 変わり果てた息子の屍を前にして

 そうすれば 息絶えた息子が生き返るかのように

 自分の身体全体が 悲しみと愛おしさの塊となって

 拷問道具で責め殺された 生々しい傷あとを さすりつづけた

 ‥‥‥

 あなたの息子の死を聞いて 続々と詰めかけてきた仲間たちは

 来る日も来る日も 片っ端から捕らえられた

 ‥‥‥

 お母さん

 その日から 早9年たちます

 お母さん

 あなたの息子や 息子の仲間たちが

 命をかけて逆らった戦争が 果てしなくつづき

 夫を失い 父を奪われ 息子を亡くした人々が 数を増し

 ぼくらの美しい国は 焼け野原になり

  ‥‥‥

 毎年 2月20日の命日が近づくと

 あなたは春の使いのように

 はるばると津軽の海を渡って

 ぼくらの前に現れました

 2月20日の集まりは まことにささやかな集まりでありましたが

 お母さん

 あなたにとって どんなに悲しく 幸福な一日であったことでしょう

 お母さん

 その集まりも 次第に寂しくなりました

 30人が20人になり

 20人が10人になり

 最後に集まったのは 4、5人だったでしょうか

 それでも お母さん

 あなたは いつも晴れやかな笑顔を忘れませんでした

 心を込めて作られた御馳走を

 自分の息子にすすめるように ぼくらにすすめ

 ぼくらの喜ぶのを どんなに喜ばれたことか

 お母さん

 あなたはリューマチを患っておられると

 人づてに聞きました

 ‥‥‥

 お母さん

 命をかけて さからった 戦争は終わりました

 ひどい負け方で 新しい暦のページがめくられました

 1945年8月15日

 この日を境に 自由への道がぼくらの前にひらけました

 監獄の重い鉄門は開かれ

 その中から 多くの仲間たちが大手を振って

 大道へ現れてきました

 もはや ぼくらは ささやきあっている時代ではありません

 ‥‥‥