詩人は危機の予兆を感得する

 

 「現代詩集」のトップに掲載されていた「黒い歌」。楠田一郎という人の詩。

 彼は何者なのか。

 楠田は熊本市で、明治44年(1911年)に生まれた。すぐに一家は当時日本が領土として併合していた韓国の釜山に移住し、楠田は釜山で育った。昭和6年(1931年)、楠田は早稲田大学に進み、昭和11年(1936年)に卒業する。楠田が詩を書き始めたのは、卒業直後だった。だが2年後に、楠田は肺結核のために死亡した。

 このわずか2年間だけが、彼の詩作の人生だった。

 昭和6年(1931年)満州事変。

 昭和12年(1937年) 日中戦争勃発

 楠田の書いた一編の詩は、読む人に戦争を伝える。

 この詩集の編集を担った大岡信は、楠田の「黒い歌」をなぜ詩集のトップに載せたのか。大岡信は書いている。

 

 太平洋戦争が始まる前に死んだ楠田の作品に、すでに戦後詩の予兆と言えるものが、はっきり見て取れる。一人の青年詩人の唇を通しての、その時代の青年たちの声の表現。第二次世界大戦へ、世界がとどめようもなく転がっていく恐怖があった。ナチズムやファシズム、日本軍国主義の高まり、それらが呼応して青年にのしかかり、敏感な一人の青年詩人の感じ取ったのは、もはや「私」ではなく、「われわれ」としての発想でしか抒情詩は書けない時代になっているという実感だったのだ。一人の運命が、他の何十万。何百万の運命となっていく実感。

 全体主義国家には、恐怖支配の実感が「私」という主語を奪っていくという危機感の発露があったのだ。この危機感は、第二次世界大戦を経て、戦後に至るも、本質的に少しも変わらず保たれている。近代文明は根本的に変わらず、帝国主義植民地主義は、その本質を変えていない。

 詩は現代の危機の予兆をうたう。最も覚醒した意識の持ち主は戦争の真実を見抜いて予言する。

 

 楠田の詩「黒い歌」の一部をここに書く。

 

  この風の吹きつくすところ

  空気もなく雲もない谷間のくぼ地

  とげとげしいアザミの葉をかじり

  獣どもの叫びが

  荒々しい兵士の一隊の如く

  無色の空にかけあがった

  おお 人間が殺されてゆく

  この樹を見よ この石に聞け

  大地の裂け目では

  さまざまな生活が営まれ

  さまざまな血が吹きあがり

  苦力(クーリー)の脂ぎった額のように

  白日の光にきらめいていた

  これが世界の樹液であり

  汗臭く しかも血まみれていた 

  くずれた土塀の陰では

  男の肩がみだらに息づき

  裸の女はすでに息絶えていた

 

  河は埋もれた

  そして夢は消えた

  太陽は大地を裂き

  女は引き金を引いた

  兵士は見事に射殺された

  世界が狂い

  美しいと言われた花も

  風の中で わめきはじめた

 

  沸き立つ下水道の底で

  鈍い色の空を夢見た

  頭の上で木の葉が揺れ

  大砲の音がとどろき

  地が かすめられ

  野は 氾濫に沈んだ

  右の手はすでに くだかれ

  左の手は 傷つき

  平衡を失ったこの兵士の如く

  濁ったひとみで シニカルに笑った