安曇野で「三九郎」と呼ばれているトンド、地区の子どもの火祭り、正月飾りなどを燃やす。だがこの行事はコロナで今年も中止になっている。
正明君から届いた年賀状に、大きな文字がハガキ一杯に書かれていた。
「もっと光を」
ハガキの隅には、「ゲーテの最期の言葉です」、という文字があった。
もう50年以上も前のことになる。教え子の正明君は大学二年だった。突然両眼を失明したという。
ぼくは彼の家を訪ねて行った。話を聞きながら、この不幸な現実に何を言っていいのか、適切な言葉が頭に浮かばず、途方に暮れるばかりだった。
ゲーテは、「もっと光を」と言って、虚空に右手を挙げ、指先で何か字を書いた。その字は「W」だった。二度その字を書くと、ゲーテの顔から血の気が引き、息が絶えた。82歳だった。
「W」は、何を意味するのか。
ドイツ文学者の小塩節は、それはゲーテの名前の一文字「ヴォルフガング」の「W」であろうと、著書「木々を渡る風」に書いていた。ゲーテの愛したモーツァルトと共通の、愛しい名。
ゲーテは、若くして、ワイマール共和国に招かれ、国政を任された。国家財政の立て直し、軍備の縮小、林業の振興、学校教育の充実、鉱山開発‥‥、ゲーテは重責を担った。そして80歳を超えるまで採掘用ハンマーを手にして山や沢を歩いた。鉱石を求めて山を歩き、キッケルハーンの狩人小屋に泊まった。その時、即興詩「旅人の夜の歌」をつくり、小屋の板壁に鉛筆で書きつけた。
峰々に
憩いあり
梢を渡る
そよ風の
あとも見えず
小鳥は森にしづもりぬ
待て しばし
汝もまた憩わん
1832年、82歳のゲーテは「もっと光を」の言葉を残して世を去った。
正明君が年賀状に書いてきた「もっと光を」。それは彼の切実な願いだった。視力を取り戻したい。だが、ぼくは何の答えも持っていない。解決策も知らない。慰める言葉、力づける言葉も持っていない。言葉を失ったまま、ぼくは彼と別れた。そして長い年月が経った。
昨年、ぼくの自伝的小説「夕映えのなかに」を、本の泉社から出版した。そこにぼくが新任教員になって勤務した淀川中学校での教育実践を書き、その中に、当時登山部員であり学校新聞部員だった正明君が登場する。今はもう50年以上も前になる元気な中学生が小説の中でよみがえってくる。
「もっと光を」、あの時、その願いにぼくは何をすればよかったのか。何ができたのか。
「寄り添え!」
今、この言葉がぼくの心に響いてくる。「寄り添って 心の声を聴け!」 そこに原点がある。答えがなくとも、解決策がなくとも、寄り添うことはできる。
ぼくが寄り添うことを怠った子らへの慙愧の念が胸に湧く。
「夕映えのなかに」は、教員や親に伝えるぼくの、苦悩と希望の叫びの書でもある。
寄り添え! 寄り添って声を聴け!