晩年の福井さんは、自己の人生を、「追わずとも牛は往く」と「『金要らぬ村』を出る」のニ著に表わし、出版した。この二冊には福井さんの人生をがつづられている。
生まれたのは北陸の寺、僧侶の父は「坊さんは食いはぐれがない」と言い、福井さんを跡継ぎにと考え、大阪の寺での修行を強いた。福井さんには、絵描きになりたい、物理学を学びたいという希望があったもののそれに従わざるをえなかった。
「おれはこの環境からどうすれば脱出できるか、大学に行くしかない。」
偶然週刊誌で見たのがゼンガクレンの委員長、唐牛健太郎の写真と記事だった。突破口はそれだ。
「彼らの表情は生き生きとして全身が躍動していた。オレのように訳の分からない因襲をただ受け入れ、我慢しているものはそこにはいない。いったい彼らを突き動かしている情熱とは何だろう。」
1960年、福井さんは北大に入り、そして学生運動に没入する。大学を出ると道東の高校教員になった。
35歳の時、人生を変える出会いがあった。北海道別海にある番外地、そこに入植している人たちの共同体「北海道試験場(北試)」だった。著書に書く。
「サイレージの匂い、食堂の湯気、子どもらの声、そこには心底ほっと安堵させるものがあった。煤けた壁に、『牛を観る 牛に聴く』の張り紙が風に揺れていた。ギターの音が聞こえ、数人の歌声が響き渡っていた。イルカの歌だ。
ふざけすぎた 季節のあとで
今 春が来て きみは きれいになった
去年より ずっと きれいになった
この里の宿舎の窓からは広漠とした雪原が見え、そのかなたに知床の山々がくっきり浮かんでいる。ノートに一文をメモした。
私たちの個は互いに屹立し
他と峻別される単峰でなく
並び立つ連山の峰の一つになり得るならば、と願うのです。
人は、共に在ることが避けがたいからこそ
睦みあうものとして生まれたのでしょう‥‥」
「北試」はやがて三重の実顕地と合流し、その運動は全国から世界へ展開した。福井さんの活動は、「教育から学育へ」の理論と実践の中核をなし、誠実、理知、温和な人格は、多くの人に愛され、親しまれた。
15歳になった福井さんの息子は、実顕地に作られた学園になじまず、それに反発し、単身ムラを出て、東京で自己の人生を切り開く道を歩き出した。親子は断絶する。
「息子よ、お前の精神と心情は、父であるオレとは似ても似つかぬものに育まれてしまったようだ。オレはまさにオレの目指す反対物を、オレの血を分けた存在から生み出した。」
ある日、福井さんは変貌した息子に出会って一驚する。年は19歳になっていた。息子はかつてなく堂々とし、自信に満ちていた。もはや寡黙ではなく、淡々と自分を語った。床舗装の仕事をフリーターにして、仲間とロックバンドを形成し街頭で歌い演奏している。息子は確かに育っていた。
2001年、福井さん一家は組織を脱退し、大阪で夫婦二人、裸一貫の暮らしに転じた。仕事も金もない。夜間の警備員になった。そして大阪文学学校で学び、小説を書きだしたのだった。
私という人間の手ごたえ 私の実感 それはどこにあるのか‥‥
社会を変えようとするなら 自分が変わること
しかし 今は自分を変えようとは思わない
その前にもっと自分を知りたいのだ
たぶん自分の変わらないところを明らかにすること
おまえは何者で お前の本当にやりたいことは何か
たとえ生活や生命が十二分に満たされても
満たされず うごめくそれら
敬愛する福井さんは逝った。
「追わずとも牛は往く」の最後に、こんなことを書いている。
「悔恨を、別海『睦み』への哀惜によって溶かしながら、希望への、言い換えれば我が自己肯定の道に、ほのかながら灯がついたように感じる。」
福井さん、お互いに自己を解かして、裸になって、語り合いたかったよ。