友のありがたさ


 都ホテルのロビーにある喫茶室に向かっていくと、中の席に座っているじいさんが、じいっとこちらを注視している。彼らの一人だな。ぼくはストックを上げて知らせた。それにしても見たことのない人だ。喫茶室に入る。そのじいさんと一緒に、森君と滝尾君がテーブルを囲んで座っている。
「おうー、ひさしぶり」
 二人は、小学校時代からの面影があって、まちがうことはない。それにしても、こちらを見て笑っているのは誰なのか。
「おまえ、だれやあ」
 その男は、ずっこけた。
「忘れたんかあ。ほんまに頼むでえ」
「え? ほんまにあんた誰や?」
 森君が、
「鈴木やがな、柳一や」
「えー? ほんまあ? 鈴木はこんな顔をしてへんかったで。ほんまかあ」
「おれやがな、鈴木やがな」
「ほんまに鈴木かあ?」
「しょうないなあ。ほんまやがな」
「そうかあ、すっかり昔の面影ないなあ。森と滝尾は昔の顔が残っているけど、鈴木の顔はまったく変わってしもうたなあ」
「オレ、吉田とおうたのは20年以上前になるなあ」
「うん、そのときの顔とも違うでえ。」
 二十数年前、中学校時代の同窓会のときに、鈴木とも会っている。それから後に、彼もいくつか大病をして、無理のできない体になっている。心臓もよくない。鈴木の頭は白髪、
「大病をやってきて、今もあかん。身長は5センチ縮んだで」
「それは同じやな。オレも4センチほど縮んだ」
 滝尾もきれいな白髪になっていた。風格が出ていた。森は、ぼくと同じ、ひざの軟骨をやられて、杖をついている。
「オレも、あたまはこうや」
 ぼくはキャップを脱いで、我が坊主頭を見せる。
 それから積もる話が全面展開となった。小学校時代からの追憶。忘れて記憶に残っていないこと、初めて聞く話。
 戦争が終わって森が中国山西省の大同から引き揚げてきたのは小学校2年生の時だと言う。
アメリカ軍の上陸用舟艇とか言うてたなあ。それに乗って、日本に帰ってきたんや。船の中は鉄板の床で、その上に横になってなあ。あかんぼを連れたお母さんもいて、赤ちゃんが死ぬんや。そうしたら赤ちゃんを海に入れて葬るんや。中国から引き揚げる時、財産を日本に送ったけど全部日本に届いていなかったよ」
「そうかあ。その話、オレ今地元の公民館で外国人の日本語教室で教えているんやけど、同じスタッフの高橋さんと言う人も上海から引き揚げてきた人で、その人が言うてたが、海を渡ってくるとき、赤ちゃんが次々死ぬんや。その子らを水葬するたびに、汽笛が鳴るんだって、夜中に何回も汽笛が鳴ったと言うてたなあ」
 赤ちゃんが死んでいったのも、お母さんが栄養失調で、お乳も出なかったために、飢え死んでいったのだ。
 引き揚げてきた森君のお父さんは印刷職人で、家族みんなを養い、再び印刷所を開いた。その後を森が引き継いだのだが、その二代にわたる困難は想像に難くない。
「ぼくは、大阪市内から疎開して藤井寺小学校に転入したんやが、大阪大空襲の後や」
とぼくが言うと、滝尾も大阪の北区から疎開してきたと言う。
「北区やったら、大阪大空襲で壊滅的な被害やなあ」
「家も丸焼けや」
 鈴木はもとから藤井寺か。
「オレは小学校に入る前に北海道から移住してきたんや。父が亡くなってな。ほんで母と兄弟で果樹園をやりだしたんや」
「そうすると、オレら四人は、地の者じゃなかったんやなあ」
 地の者からすれば、よそから来たものは、よそ者。いじめるつもりはなかったにしても、見方や扱いは異なっていた。
「森は、いじめられたら、相手の頭にかみついていたなあ。歯形がデコについてたで」
と言うと、森は豪快に笑った。小柄な森は抵抗するには噛みつくしかない。
「オレら、四人組と言われたね」
「ほんま? それいつ?」
「六年の時や」
「そう言えば、オレら、彰一に抵抗したなあ」
「彰一はガキ大将というほどのことはなかったけどねえ。なにしろ在日韓国人の徐君の存在感が強かったからなあ」
 松村先生が師範学校を出て赴任してきた四年生の初め、
「松村先生、朝礼台で赴任のあいさつのとき、『おれを兄貴と思え』と言ったなあ」
「あの先生が、学芸会で演劇をやったり、弁論大会をしたりして。徐君が野口英世の主役をやって、火傷の障害で差別されたとき泣くシーンがあった。ほんまに涙流して演じたんや。あれから、徐君がヒーローになっていったのや」
 滝尾君も波瀾に満ちた困苦の人生だった。実の両親が亡くなって、中学を出てからパンをつくる職人から料理人になった。今彼は、小説を書いている。老境に入ってから大阪文学学校に通い、文章を書き出したのだ。「あべの文学」と「かわちの」の同人文芸誌に彼は自分の人生をつづっている。
 四人は、二時間半、ロビー喫茶室で何度もコーヒーのお代わりをしてもらって盛り上がった。帰りに、
「これ読んで」
 滝尾君が、手書き原稿をコピーした、三篇のエッセイを手渡してくれた。その一つに、「天皇の料理番」というタイトルがついていた。テレビドラマで見たのと同じタイトルだったから、興味深々で読んだ。
 昭和19年、戦局は悪化。小学一年生の滝尾は習字の練習をしていた。そのとき、西洋料理の職人だった父が、習字の文鎮になるだろうと、大切に保存していた布にくるまれた青銅製の軍艦の置物をくれた。その置物がどういう意味をもつものであるか、折しも訪れた祖母が教えてくれた。滝尾が生まれる前にお父さんは天皇陛下のご飯をつくり、それでいただいたものだという。滝尾は詳しい話を父にせがむと、10年ほど前、海軍の大演習のとき、父は公募で選ばれて戦艦の厨房に入った、そこへ天皇陛下が来艦して演習をご覧になった、父はそのときに料理をつくって召し上がってもらった、という話をしてくれた。 
 滝尾はその話を聞いて感激し、自分も料理の職人になると言ったが、父は、「包丁の峰打ち」が飛んでくるような厳しい世界に息子が進むことに反対した。その後お父さんは結核で亡くなり、結局彼はその厳しい料理の世界へ進んでいった。
 エッセイは、父への思いを深く刻んだすぐれた作品になっていた。