子どもたちの声を聴きましたか

 

 朝日新聞私の視点」に下記の文章を投稿した。この投書が採用されるかどうかは分からない。

 

    長野市の公園閉鎖問題

  〇子どもたちの声を聴きましたか

 

 遊ぶ子どもの声や宅地へのボールの飛び込みなどが原因で、近隣住民から苦情が出、区長会からも廃止要望があって、長野市は公園を閉鎖し、来年3月末で廃止する方針であるという。

 この出来事は何を物語っているか。戦前から現代へと、この国の社会と子どもたちを見てきた私の視点から意見を述べたい。

 人は「子どもの声」をどのように聴いてきたか。全身で泣く赤ん坊や、体を響かせて叫ぶ幼児の声、それは「生命の声」として親も家族も聴いてきた。小学校の休み時間、校庭に花開く遊ぶ子どもたちの声も、育つもののエネルギーとして聴いてきた。私は国民学校(小学校)2年生の時、大阪大空襲から疎開して家族で大阪の河内に移住した。戦後すぐの小学校には、疎開してきた子、中国、満州から引き揚げてきた子等もいて、生活は困窮していたが、遊びを通して仲良くなり、休憩時間はにぎやかな遊びの天国になった。冬、暖房など無い寒い教室や運動場も、集団遊びで体を温めた。軍国主義教育から解放された教員たちは、民主教育創造を模索し、子どもたちには実に寛容だった。子どもたちは学校から帰ると、近所の子らと群れをつくり、村の道、広場、野池、野原で遊ぶ。知恵を働かせ技を競い、遊びには豊かな創造、冒険、発見があり、熱い友情が育まれた。

 私は成人して中学校の教員になった。そこで出会ったのが、「いたずらの発見 ――野に立つ教師五十年」という画期的な書だった。昭和の初期に小学校の教員になった戸塚廉の著で、彼は軍国主義の時代の中にありながら児童の親たちに発信した。

 「なるべくいたずらをさせて下さい。いたずらは子どもにとって、もっともおもしろい勉強なのですから。」

 そして著書の中に書く。

 「大人たちが『いたずら』として子どもから取り上げるものを、子どもたちに取り戻してやることが、私の仕事である。私の仕事は、子どもたちと共に、いたずらの奪還をすることであった。」

 この著作は、現代の教員、父母、行政にたずさわる人の必読書だと思う。

 

 私は問いたい。公園閉鎖の原因をもたらしたという子どもたちの意見を聴きましたか。当事者の子どもたちは閉鎖についてどう考えていますか。子どもたちの考えを無視して方針をだしていいのですか。

 長野市の問題の背後にあるのは、行政、住民の「認識の欠如」であるように思う。これは長野だけの問題ではないだろう。その公園の代替地は他にあるから閉鎖してもいいという大人の考え方には子どもの声が入っていない。

 当事者の声を聴かないで、無視をして、政策を決める。子どもにとってこの公園はどういう場だったのか、この「本質的な問題」をうやむやにしてはならない。

 現代の子どもたちの育つ場は恐ろしいほどやせ細っている。行政や住民の認識もまた恐ろしいほどやせている。