巨木の贈り物


 アルプス公園へ上っていく途中に、伐採した木材の置き場がある。そこに二抱えほどのケヤキの大木が2メートルほどに輪切りされて置かれていた。そのなかに、おもしろい形のものがあった。幹の中心が空洞になり、一方がぱくりと空洞部分を見せるように開いてU字になっている。幹の空洞も、その一方がU字溝みたいに割れているのも、自然の力だ。割れて開いたほうを上にして横たえると、大きな木のソファーのようになり、小さな子どもならその空洞部分にうずくまって座ることができそうだ。
 子どもの遊び場にちょうどいい、見た瞬間に思った。これを児童館か小学校の校庭の遊び場に置けないものか。
 地元の小学校も児童館も、子どもの遊ぶ空間には子どもの遊べる樹木がない。学校林の思想も存在していない。このケヤキの造形、もらおう。
 地元の児童館は、今年から運営を市から社会福祉協議会に移された。社協事務局長の樋口さんなら話が通じる。聞く耳を持っておられる。3.11後の福島の子どもを放射能から守ろうと、安曇野で受け入れる活動を計画したとき、親身になって動いてくれたのは樋口さんだった。この話、信頼できる樋口さんに提案してみよう。
 そうして話が進んだ。ことはケヤキの木だけの、物のことではない。今の子どもたちの置かれている環境、文明の問題として考えた。目先のことで動き、先を考えない大人の都合では、こんなもの要らないとなることは必定だ。
 子どもの世界から奪われている自然、それはこの安曇野の学校、家庭も同じだ。
 ケヤキの持ち主、太田林業さんに話すと、快くOKのサインを送ってくれた。子どものためならエンヤコラ、軽トラックを持ってきたら、機械で荷台に載せてあげますと、構想を歓迎してくれた。社会福祉協議会の担当課長とも話した。これから検討し、動いてくれることになった。

 今朝、いじめのない学校、学級をつくるにはどうすればいいのか、予防のできる速戦力をつけてほしいと、長野県の教育長が今年の新規の教員研修で話していた。
 子どもの中に入って、子どもを見つめ、子どもの心を感じ、交感することは、欠かせないことだし、いじめを見たらすぐに対応できる力をもつことは大切なことではある。それは否定できない。だが、教育観と教育施策のなかから根本的なことが、するりと抜けている感じがいつもしている。根治療法ではないと。
 「いじめ」という行為で他者に向かう心がある。「不登校」という行為で、学校を拒否する心がある。何もかも「だるい」と、やる気なく、無気力感におちいっている心がある。それらは現象が異なっても、子どもの置かれている環境の根っこは同質であり、その同じ土から、異なる芽が出ている。
 朝、目覚めて、夜寝付くまで、子どもの生活を、子どもの育つ環境という視点から見つめてみると何が見えてくるだろう。
 寝床に入った子どもは、明日が楽しみだと思いながら、眠りについているだろうか。
 朝、目覚めた子どもは、はりきって、今日の楽しみを心に描いているだろうか。学校を思うと胸がわくわくする、友だちと遊ぶ楽しさ、学ぶ楽しさを胸に抱いているだろうか。
 現実は、げんなりと疲れ、惰性で動き、なんだかむなしい子どもの心、そういう子どもを包み込んでいる心的、物的環境にこそ同根の原因がある。
砂漠のような殺風景な小学校の校庭を、これは変だと思わない教職員と教育行政、そして父母、結局大人感覚の安全管理と大人感覚の学校になっている。
 校庭の花に触れ、草むらに住む虫と遊び、樹肌を撫ぜ、木登りもできる、池で魚が泳いでいる、今日は、校庭の自然観察をしましょう、明日は、里山まで歩いて森の木を見ましょう、自分のやりたい自由な創作を地域を舞台にしましょう、という生活が生まれてくると、子ども集団がかならず動き出し、高まっていく。コミュニケーションが活発になる。そうして冒険・探検・創造の精神が蘇生し、学習研究の心が旺盛に成り、生きる力を育む子どもの文明が復活するのだ。
 今の教育の問題はこのような子ども環境の基礎づくりなしには解消していかない。