岩波茂雄と信州人気質

 信州に住んで8年目になる。信州の人には信州人気質があるように思える。けれども、信州人気質と言われるものが信州人に共通しているかとなるとそうは思えない。特徴と思えるものも、それが目立つ人たちがいるということであって、それが感じられない人も多い。ぼくは大阪の河内生まれの大阪育ちで、そこで大阪人気質というものを感じてきた。大阪人はあつかましい、なれなれしい、どろくさい、庶民的、ユーモア感覚が豊かである。大阪の河内出身というと、けんかっぱやい、柄が悪い、と言われることが多かった。そういう傾向は感じるが、全く逆な感じの人も多く、ほんとうにそうなのかと言いたくもなる。気質というものは、社会風土のなかから生まれ、時代や社会状況で変化もする。庶民同士のコミュニケーションが豊かだった時代は、人と人が影響しあって共通的な気質もかもしだされただろう。それが、親密なコミュニケーションが乏しくなってくると、最大公約数のような特徴も、なんだかあやしくなる。
 1913年、岩波書店を創立した稀代の言論人・岩波茂雄(1881〜1946)は諏訪出身であった。岩波茂雄の大の友人で自由主義思想の哲学者、安倍能成(1883〜1966)は、1957年、岩波茂雄の決定的伝記を刊行している。
 「岩波は信州人であり、信州人中でも最も特色のある諏訪人であった。岩波は信州人を批判的に見ているところもあったが、彼自身実に代表的な信州人的性格の所有者であり、内心信州人であることを誇りとしてもいた。
 彼の信州人観を彼の書き残したものについて紹介しておこう。彼は明治32年に上京して、日本中学に入ったとき、初めて信州人以外の青年に接し、自分の姿を鏡に映されたように眺め得て、田舎天狗ではだめだという反省を得たと言っている。彼によれば信州人は、男は狂人変人と評されるほど変わっており、女子はしとやかさに乏しく、出しゃばりが多い。これがもし本当なら、彼も信州男子として狂人的なところはいっぱし備えていた。彼はまた、海のごとき西郷南洲に対比して、信州の偉人と称せられる佐久間象山をば、信州の高山峻岳を象徴するものと見ている。信州人の長所は、独立心が強く、研究心に富み、進歩的であり、よい加減に甘んぜず、理屈を徹底しようとするにあり、その短所は、独善的で、雅量に乏しく、議論倒れで実行に欠け、隣の越後人に比べても、より多く理知的に偏して宗教心に乏しい点にあると考え、こういう県人の長短を挙げて、彼は郷里の青年にも切々と忠告を与えていた。
 また彼は、長野県が教育県の名を得て、県人の教育に熱心なこと、特に小学教育においてすぐれていることを認め、昭和8年、小学校教員中に思想赤化者を出した事件についても、大いに同情すべき点のあることを説き、県当局が角をためて牛を殺すことなきを望み、信州の教育者に破廉恥罪の絶無なることを誇りとしている。また信州の小学校教育の非官僚性を賞揚し、県教育のために自ら進んで小学教員をやめ、県庁の役人(視学)となった友人が、県庁の役人から煙たがられ、地方の郡長に回されるようになったとき、普通は栄達と考えられるこの任命を拒んで、『小学校長なら』と言い張り、一時職を失ったことも語っている。」
 これは、岩波茂雄が言う信州人観だが、現代はそれとは異なるものが現れてきて、いったいどうなっているのかと言われてもいる。「信州の教育者に破廉恥罪の絶無なることを誇りとしている」とあるが、岩波が現在生きていたらどう言うだろう。ここ数年、破廉恥罪が続発である。「長野県が教育県の名を得て」という点でも、「今や全くそうではない」という声を聞く。不登校児童生徒の数は全国でも上位にある。進歩的、革新的、理知的、研究熱心、非官僚性という点でも、はたしてそうだろうか。
 結局、県人気質とか、県の特徴とか言われるものも、日本の国がかかえている全国共通の問題と無縁ではない。教育の問題も、学校のかかえている問題も、全国共通の原因が影響して、現象となって現れてきてもいる。
 それでもなお、一市民として暮らしているぼくは、行政について、学校について、信州の社会風土、教育風土に感じるものがある。
行政の民主化に空洞が開いていないか、管理職など人事のあり方に問題はないか、天下り人事はどうだ、創造的な教育実践が自由に行なえる環境・条件が存在しているか、多忙な雑務と形式主義、管理主義によって、教員は疲弊していないか。
 ぼくはここ2年、地元小中学校の招待を受け、入学式、卒業式、運動会に出席してみて、なんとなく感じるしんどさがあった。ぼくの体と心が、固さ、重苦しさ、ストレスを感じていた。それはいったいなんだろう。学校へ行きたくない、と拒否する子どもの気持ちがなんとなく分かったような気がしたのだが、それはぼくの感じ方にすぎなかったのだろうか。子どもたちは整然と型にそって行動していた。教師の熱心な指導性も見えた。子どもたちは至極まじめだった。だが、子どもの表情、行動に、子どもらしさがあまり感じられなかった。子どもたちは解放されているだろうかと思った。その日は、地元の人を招く儀式だったから、子どもたちの普段の姿は分からなかったのかもしれない。それでも、ぼくの身体は何かを感じていた。
 信州人気質、県民性というものがあるとすれば、それはどういうものだろうか。現代の信州の地域社会状況と構造、学校や家庭の情況のなかに潜む問題を県民・市民が究明し、そして未来を描くことだと思う。新たな信州人気質、県民性はそこから生まれてくる。