オリンピックの原点

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 テレビから、「金メダル獲得!」という、興奮した叫び声が聞こえてくる。

 

 「オリンピックは参加することに意義がある」、というオリンピック精神は薄れてしまった。勝つこと、メダルと取ること、そればかりだ。

 

 ぼくはオリンピックの柔道の試合を見る気がしない。柔道がオリンピックの種目になってから、「柔道」は「剛道」になってしまった。レスリングと変わらない。力づくの技のかけあい。「美」は感じられない。

 

 戦後五年、ぼくは中学一年生だった。町の役場と、町の警察が、青少年の健全育成を名目に、町の柔道師範の協力を得て、柔道を教えることになった。ぼくは友達数人とともに柔道教室に加入した。費用はタダ。町が出してくれる。

 ぼくは、父が旧制中学時代に使っていた柔道着をもって、師範の道場に通った。

 師範は、嘉納治五郎の柔道の精神と技を教えた。

 「柔よく剛を制す。」

 「自然体で立ち、自然体で構える。」

 「力で倒すのではない。技で倒すのだ。力の強いものが勝つのではない。」

 「技がかかると美しい。無駄な力の勝負ではない。」

 「柔道は道である。 道は、人として守るべき条理である。追求して身に付ける理想である。」

 

  柔道が剛道になり、オリンピックの種目になってから、美しい技の勝負ではなく、力の勝負になった。

 

 今朝の新聞で、山極寿一さんが批判していた。

 スポーツの起源は「遊び」だ。仲良く遊ぶこと、その原点が楽しい。

 今のオリンピックは、商業主義、金儲け主義、国威発揚、放映権を求めて莫大な金が動き、結果、この猛暑の夏に開かれた。そして大規模な施設建設、開発が行われた。スポーツは金と名誉の獲得競争の場になっていやしないか。

 山極さんが提案していた。いっそのこと、開催地はギリシアに固定したらどうか。オリンピックは、平和と福祉に貢献する、遊びの場、交流の場。原点にもどろう。

 

 

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