ズボンのファスナーが開いている

 

 カカシのおっちゃん、Hさんが畑を観察していた、朝5時半。畑の端に、カカシ一体あり。奥にもう一体が立ってる。
 「鳥を追い払うで、ホウキを持たせただ」
 Hさんが言う手前のカカシは竹ボウキを肩にかついでいる。畑にはトウモロコシが芽を出している。
 「サングラスもかけてますね」
 「夏だからね。ちょっと長袖は暑そうだね」
 Hさんの趣味、手づくりカカシ。
 おっちゃんのズボンを見ると、前がぱかっと開いている。
 「愛の小窓が開いていますよ」
 Hさんは平然と、
 「チャックがきかなくなってるでね。はっはっはっは」
 空を見上げて大笑いしてから、
「こういうのは、言われても平気な人と、言われて気分を害する人といるね」
 おっちゃんまたまた大笑い。
 ズボンの前が開いていると指摘されると、笑って吹き飛ばしてしまう人もいれば、恥ずかしいところを見られたと気にしたり恥じたりする人もいる。そんなこと直接言って恥をかかせるな,黙って見過ごせばいいんだと思う人もいるだろう。だから、直接言うのも抵抗感がある。見ぬ振りする。
 愛の小窓が開いてるよ、こういう隠語で直接言えるのは、親しい間柄の場合だが、「チャックが開いていますよ」と言われるより隠語のほうが、笑いで恥ずかしさを吹き飛ばせる。隠語の効用だ。
 「愛の小窓が開いている」という隠語を初めて聞いたのは小学校6年生のときだった。親友の鈴木柳一君が教えてくれた。一般的によく知られた、ズボンのチャックが開いている隠語表現は、「社会の窓が開いている」だった。ぼくが「社会の窓が開いている」と言うと、「それは『愛の小窓や』」とその時柳一が言った。
 柳一は、用を足しているとき履いているゴムぞうりの片方をトイレの便槽に落としたことがあった。昔の木造校舎だ。男子トイレの小便するところは、コンクリート台が一段高くなっていて、10人ぐらい横に並んでコンクリート壁に向かって放出できた。小便をやっていた柳一のゴムぞうりの片方が脱げてチョポンと便槽の溝に落ちたのを見たぼくは、柳一に「チョッポン」というあだ名をつけた。柳一は、この不名誉な出来事と、あだ名をつけられたことに対抗して、同じく嫌なあだ名を付け返そうと、「おむつ」というあだなを仕返しでつけた。これに対してまたぼくは反撃して「オチョコ」と付けた。英語の授業の最中、柳一がぼくに何か変なことを言った。途端にぼくの口から「オチョコー」という叫び声が飛び出した。教師も生徒も爆笑。このあだなは二人の間だけでとどまり、生徒間には広がらなかった。
 柳一が「愛の小窓」という隠語を知っていたのは、たぶん彼には10歳ほど年の開いた兄さんがいたからだ。兄さんに聞いたのだと思う。ませた隠語を使って背伸びしたい感情があったのだ。柳一が教えてくれたもう一つの隠語は、「ワシントンキャバレイ」だった。「WC」の頭文字だと言った。これはすごい、ぼくは大いに感心した。この隠語はどこで生まれて広がったものだろうか。柳一は、またこんなことを言った。
 「WCは、ウンコとシッコや」
 ぼくはふーんとまたまた感心してしまった。
 中学生のとき、町の自治体警察が少年の健全育成に柔道クラブを開いたので、柳一や晃と一緒に入部した。練習場所は町の柔道場で、師範はその道場主だった。月に何回か道場に通って稽古する。あるとき、乱取りの練習していた青年が投げ技で股間を打って倒れた。道場主の師範が近づいて、股間を押さえてうめいている青年に、
 「竿だっか、釣鐘だっか」
と聞いた。竿ですか、釣鐘ですか、打った急所はどちらかと問うたこの言葉を聞いた柳一と晃は、それを学校で言いふらした。男子の間でしばらくの間、「竿だっか、釣鐘だっか」がはやった。
 高校3年生のとき、担任の野村哲也先生に連れられて、初めて剣岳に登った。
 「キジうちに行くよ」
 トイレのない山の中で用を足すこと、すなわち大便をすることを山の連中はそう呼んでいた。山用語の隠語だった。大学山岳部に入ると先輩から、
「お花摘みに行ってきます、と女の子が言ったときに、一緒に行きましょうと言うなよ」
と言われた。男はキジ撃ち、女の子はお花摘みだと。
 教師になって矢田中学校で教えていたとき、ぼくのクラスにとても機知に富んだ、おもしろい女の子がいた。その辻弘子さん、あるとき、
 「テープレコーダーに行ってきます」
と言った。何それ?
 彼女は、テープレコーダー → 音入れ → おトイレ、と解説してくれた。なるほどWCか。
 隠語は、多く仲間内で使われる。警察で使われる隠語がある。軍隊で使われる隠語があった。刑務所の受刑者で使われる隠語、社会運動で使われる隠語、学校の隠語、それぞれある。
 学校での隠語、最近はどんなものがあるだろう。いじめや、仲間はずれや、陰湿な行為に関係する隠語がいろいろあるのではないかと思う。