キンモクセイの香り

 教室に金木犀の小花を持ち込んだのは、ジャガイモだった。中学3年生の教室はトイレの隣にある。男子の小便をするところには便器もしきりもなかった。
 二学期に入ったある日、3時間目の授業が終わって先生が職員室に帰っていくと、ジャガイモは平屋の木造校舎の窓を乗り越えて、外に出た。教室のざわめきが聞こえるほどの近くに住宅街があり、フェンスも何もない校舎からは自由に外へ出ることができた。4時間目が始める前にジャガイモは帰ってきて窓をまたいで教室に入った。手に持っていたのがキンモクセイだった。
 「ええ匂いやあ」
 ジャガイモは大声で叫んだ。ほんまにそれはいい匂いやった。
 「ええ匂いやろ、これやるわ」
 ジャガイモは、折り取ってきたキンモクセイの黄色い花を、ポンと机の上へ投げてよこした。人差し指ほどの小枝についた粒々の花、それがキンモクセイという名前であることをそのとき初めて知った。花は、校舎の隣の民家の庭にこんもりと咲き、その香りは窓から教室にも入ってきていた。ジャガイモは、女の子にその花をやりたかった。けれどそれをすると、他の男子から何を言われるかわからない。だから、ジャガイモは大声でパフォーマンスをする。
ジャガイモは勉強が大の苦手だ。授業中はお寺で神妙に修行をしている小坊主のようにおとなしい。だが、遊び時間になると、がぜん天真爛漫のワンパクになる。
 一学期のとき、学校のすぐ近くの空き地に芝居小屋が建った。見るからにお粗末な仮小屋だ。五月の陽気に誘われるように、そこへ旅回りの劇団がやってきた。演目は「野口英世」だった。戦後の学校の教師たちは自由な教育を模索してきた。そりゃ、なかなかいい、生徒に観せようじゃないかということになった。
 芝居小屋の観客席は地面にむしろが敷いてあるだけで、舞台はそれなりに一段高くなっていた。ジャガイモは、うれしくてたまらない。大はしゃぎだ。老若の役者が舞台で英世の子ども時代を演じていく。途中で女の子役が舞台にお尻を下ろす場面があった。そのとき、女の子役の白いパンツが生徒たちの目に見えた。とたんに、ジャガイモが叫んだ。
 「見えたー、見えたー」
 ジャガイモは大喜びだ。男子のワンパクはジャガイモの喜びようを見てケラケラ笑った。
 それから秋になり、教師たちはもっと本格的な芸術を生徒に見せようと相談した。ちょうど洋画で評価の高い映画が上映されていた。教師たちは映画鑑賞を企画する。映画館は町から電車に乗って、大阪市内まで行く。今は阿倍野ハルカスとかいうどえらい高いビルが建っているところ、その近くに映画館はあった。学校から駅まで並ばない、みんなぞろぞろ自由に歩き、電車に自由に乗り込んで、一般乗客と一緒に終点の阿倍野駅まで行く。映画の題名は、「死せる恋人に捧げるエレジー」だと先生は言う。なんだかさっぱり分からない。エレジーという意味も分からない。先生は名画だと言うが、内容は知らされず想像もつかなかった。
 映画館の思い思いの席に座る。室内が暗くなり映画が始まる。英語のせりふの字幕が出る。ぼくはストーリーがなかなか飲み込めない。ジャガイモはもちろんストーリーがよく分からない。パリの街が出てくる。祭りがあり、フランス人がにぎやかに登場する。そのとき、恋人がキスをする場面があった。とたんに場内にジャガイモの声が響き渡った。
 「キッスやあ、キッスやあ」
 生徒たちと一緒に座って映画を楽しんでいる寛容な教師たちは、いっこうに叱ることもとがめることもしない。ジャガイモが叫んだのはその時だけだった。何がなんだかよくわからないままに映画は終わった。
 「では、ここから自分自分で帰りなさい」
 教師がみんなに伝えた。後は自由行動、2、30分電車に乗って家に帰る。
 映画館を出た。さあ、どうする。帰りの電車賃だけはもってきていた。ぼくは3人ほどの友だちと、百貨店に行こうとなった。映画館の隣に百貨店がある。入って何階か上に来たとき、女の店員が声をかけてきた。
 「あんたら今日は学校じゃないの?」
 今日は学校から映画を見に来たと答えると、何と言う映画?と訊く。
 「死せる恋人に捧げるエレジー
とたんに店員が叫んだ。
 「ええーっ、中学生があの映画を観に来たのー、ひやー、進んでる学校やねえ」
 ぼくらはほんの少し得意な気持ちになった。
 ジャガイモは別の男子の群れで行動した。百貨店はどえらい探検であった。
 ジャガイモは、家が金物屋で、愉快なワンパクのナンバーワンだった。あだ名は、小学生だったとき、担任の豪傑先生が付けた。豪傑先生は、ジャガイモをかわいがった。
 「おい、ジャガイモー」
 授業中もいつもこんな調子だった。
中学生になってからぼくは、親しい仲間と町の道場で柔道を習っていた。練習をいくらか積んだ段階になって、師範は仲間同士の試合を企画した。それを聞いたジャガイモは興味を示して、試合当日にやってきた。
 「おれも試合する」
 道場の師範はジャガイモも入れて、試合することになった。対戦相手に師範は、ぼくとジャガイモを組み合わせた。試合が始まる。いきなり彼は、見よう見まねで背負い投げを打ってきた。彼は右手でぼくの襟首を握りくるりと背中を向けると、ぼくを頭からまっさかさまに畳に落とした。受身も何もできないような投げ方だった。幸い首の骨は折れず、怪我はしなかったが、師範は大声で、
 「一本」
と喜んで叫んだ。
 「あんな無茶な投げ方あるかあ」
とぼくが言うと、ジャガイモは、
「すまんすまん」
と笑いながら謝った。
 ぼくは今、ジャガイモの本名をすっかり忘れている。いや、頭の奥にその名があることはあるが、今はすいっと出てこない。

 それから長い年月がたった。
 60歳を過ぎ、中国武漢大学で学生に日本語を教えていた。教室の東と南の窓から森が見えた。授業の途中、教室にほんのり香る甘い匂いに気づいた。香りは窓から入ってくる。すでに100年を超える歴史をもつ大学は中国屈指の「森の大学」で、広大なキャンパスには天を突く樹木が生い茂る森があり山があり、小鳥がさえずり、大きな湖に面していた。大学の庭園の一部にはキンモクセイの園があった。
 教室に入ってくるその香り、なつかしい香り、何だったかなあ。学生にたずねるとキンモクセイだった。秋のやわらなか日差しのふりそそぐ歴史を刻んだ古い校舎、その外で金木犀が花を開いていた。


       朝戸繰りて 金木犀の香を告ぐる 妻よ 今年のこの秋の香よ
                        上田三四二