15人の女子柔道の選手たち <1>

 15人の女子柔道の選手たちが声明を出した。この告発は、社会的に問題を提起したことになり、広く議論が起こることは望ましいことだ。
 全日本柔道連盟の指導部内の威圧的権力的な体質が報じられている。それは柔道だけではないだろう。勝つことを最大の目的にした組織には必ず生じてくる力の構造である。日の丸を背負って、世界を相手に戦い、勝利を手にする、その目的遂行には非情な指導も止むを得ない、国民の期待に選手は応え、メダルを獲得する、それが選手の使命だ。こうした「勝利至上主義」の中で、上から下への一方的な命令と服従、しごきと暴力が生きてきた。
 ぼくは、この構造のなかに、「国威発揚」的なものを感じる。旧軍国主義下、「お国のため」という目的のために無謀な非道な政策が強要され、無数の人たちが犠牲になっていった悲劇を連想する。
 スポーツ界や学校の体育教育界には先輩後輩の関係、組織内の上下関係が根強い。いまだ軍事教練的なものが残っているとしたら、この世界のなかの力関係が戦後もずっと維持されてきたからだろう。
 最近、小中学校の父母からよく聞くのは、土曜日曜もサッカーや野球のスポーツクラブに忙しいということだった。好きな子がそれに没頭するのはそれはそれでいいのだが、親の中にも、こんな生活でいいのかという悩みもある。ぼくは、そのなかでどんな指導が行なわれているか、指導者は何を目的にしているのかということが気になる。
 15人の女子柔道の選手は、声明文を出した。ここに至るまでに15人の魂は葛藤をし、悩み苦しんだだろう。そんなことをするな、黙って耐えろ、告発すれば自分たちが不利になるぞ、周囲からそのような忠告や威圧もあっただろう。しかし、彼女たちはそういう動きに同調しなかった。妥協しなかった。あえて問題を社会に明らかにし、社会のなかで考えてほしいと訴えた。根本に、何のための柔道なのか、何のための選手なのか、何のためのオリンピックなのか、私たちは何者なのか、何のために生きているのか、という問いがある。なぐられ、蹴られ、どなられ、罵倒され、そうしてメダルを獲れと命じられ、私たちは勝利マシンの道具なのかと。
 国民の税金を使って行なわれるオリンピック強化選手育成である。そのことがよりよき社会をつくっていくためのものであるかどうか、そこからはずれることは許されない。15人の告発の原点はそこにあると思う。