教員の原点

 

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 かつてぼくは、教育という現場で生きていた。そのころ、しばしば思った。教師たちは本当にプロフェショナルと言えるか。

 NO!

 長野県の教員の犯した問題が時々報じられる。今日は体罰のニュースだ。

 教員免許のない人が学校で教えていたということが問題になったこともあった。確かにこれは大問題。

 「はて」、とそのとき思った。

 教員免許はプロとしての資格証明である。医師免許は、プロとしての資格証明である。ところが、免許はあってもプロとはとても言えない人がいる。
 制度とはそういうものである。免許はもつがプロではない。大学で、プロとして現場に立ってやっていく力を養成してきたか。NOである。現場に入ってから修業してプロに近づいていく過程がその後にあるということなのだ。
 だが、学校の中に、新規に任用された若い教員を育てていく仕組みと実践が存在するか。ぼくが経験してきた学校では、NO!である。

 それにもかかわらず教員採用試験に合格すれば、教壇に立つ。
 学校現場には教員を育てていく仕組みと実践というものは特にない。特別な機関もない。それを可能にするのは、教師集団である。互いに切磋琢磨し、教え合い、教育を創っていこうとする意志集団をつくることである。それが生まれてくれば、若き教員はそこから学び、自らを鍛えていく。

 そしてもっとも重要なのは、教員自らの学びである。学ぶのは実践に生きた先人からと、目の前の子ども、児童生徒からである。子どもたちの前に立てば子どもたちから教えられる。しかし、それも、教員が「教える存在」として君臨している限り、プロの道は程遠い。
 自分で努力して教師になっていく、その過程では多くの失敗もする。何度も歯ぎしりする。教師失格と思うことも何度もある。
 「育てること」と「学ぶこと」、組織がそれを忘れると、必ず組織はゆがむ。

 

 生き生きとみんなで交流し、教育実践が楽しくなる、子どもと暮らすのがおもしろい、そこから教師が誕生する。