教師たちの創造性


 ぼくは人生でたくさんの教師という職業の人に出会ってきた。分類すると、
 ○小学校1年生から中、高、大と教わってきた教員。
 ○自分が教員になってから、学校職場や研究会や外部の諸活動で出会ってきた教員。
 ○書籍、文献で出会った教員。
 この三種類になる。
 この人たちのうち、心に残る教師、影響を受けた教師、クリエイティブだった教師というと、何人いるだろう。教師像を考える。すると、ここにもうひとつ自分自身はどうだったのかというのが加わる。教員になって、生徒たちと生きて、学んで発見して体験してきたこと、評価できること、できないこと、成功失敗、感動落胆、実にさまざまな、肯定すべき否定すべき自己の姿が脳裏に浮かぶ。
 その時々の教員としての、自分の知識、知性、感情、感性、性格、精神、技術、経験など、限りない要素、それらが自分の教育実践に現れる。
 子どもたちの前に立っている不完全な、未成熟な教師。それでも教師をやってきた。その功罪を思うと、熱い思いと痛む思いが交錯する。
不完全で、未成熟、それは教育の世界だけではない。政治家たちも、医師たちも、司法にたずさわる人たち、宗教家も‥‥、およそ人間というものは、みんな不完全で未成熟な欠損を持つ。
 そういう人たちで人間社会をつくっている。
 だから、必要なのは、寄り合って知恵を寄せ合うこと、謙虚に論じること、素直に聴くこと、積極的に学ぶことなのだ。
 ことを進めていくために人は組織をつくる、集団をつくる、仲間をつくる。ところが組織の指導部、執行部は、上に立つと、知恵を寄せ合うこと、論じること、聴くこと、学ぶことが実に軽薄な場合が多い。指導部の周りに集う人たちの、知性・知識・思想・経験・技能・感情・感性・精神はどうだろうか。自己を自由に発現しているだろうか。他者を受け入れ、より高い次元に高めていこうとしているだろうか。
 困ったことに集団には「君臨するもの」「権力化するもの」が登場しがちである。するとそのボスの周囲には、「なれあうもの」「媚を売るもの」「迎合するもの」「同調する」ものたちが集まってくる。
 ぼくは「学校教育を創造していく」という目的意識をもって教育実践に取り組んできた敬愛すべき数少ない人たちを知っている。その人たちはただただ地を這うようにして教師人生を生きた。

 いま教員たちは自由に創造する喜び、開拓していく楽しみ、実践する醍醐味、そして先駆的な誇りを抱いているだろうか。
 行政の長は、リーダーシップの発揮において、どのように誤まりのないように、賢明なブレーンを準備しているだろうか。
 「教育において重要なのは、子どもたちの自由な創意を育むことであり、学校とは実験の場である」とデューイは言った。現代の教師たちは、どんな実験を教師集団の知恵を集めて継続的に行なっているだろうか。
 多くの学校で、教育行政から降りてくるものを受け身的に受け入れ、従来の伝統、習慣どおりに形を継続していくものになっているように思えてならない。
 民主主義教育とはつねに再創造していくものである。お上から降りてくるものではない。