人を育てるということ――STAP論文問題

 STAP論文問題で、小保方さんが記者会見を行ない、午後1時からそのTV中継があった。この若き研究者は、今もなおSTAP細胞研究への情熱をたぎらせ、今回の問題は自己の未熟さから起きた間違いであって、悪意ある改ざんや捏造はなかったと語った。事実関係の真実は、当事者でないと分かりはしないが、小保方さんの言葉と態度には、理化学研究所という巨大にして権威ある組織にひとり立ち向かう姿が感じられた。たしかに研究者として、やってはならないことをしてしまったのかもしれないし、研究者ならばやらなければならないことをしていなかったのかもしれない。
 それでも、見ていて湧いてきた疑問は、NATUREに論文を発表するほどの研究が、小保方さん一人の問題行為になって理化学研究所によって弾劾されつつあるという組織問題である。
 そして思う。「人を育てる」という問題はどうなっているのかと。
30歳の若さであっても、その研究者の力量を見て、一人前の研究者として尊重される。それはしかるべきことである。どんなに若くても、その人の情熱、目的意識、チャレンジ精神の発揮できる組織こそがあるべき組織であろう。ただし、そこで重要なことは、組織としてのサポートが欠かせないということである。年輩の世界的な第一線の研究者たち、プロフェショナルの研究者の集団が、若い研究者を育てるという視点での取り組みをどのように行ってきたかということである。
 ぼくが最近思うのは、プロフェショナルとは何かという問題である。
組織のなかで、若き力を育てるというテーマは、普遍的なテーマである。実力、経験の豊富な先輩が組織内の若いメンバーを育てる、これは下手をすれば、若い芽をつぶすことになるし、ゆがめてしまったり、服従させたり、自己の勢力に取り込んだりすることにもなる。だが、若い力を育てることのない組織では、経験の乏しい若い実践家は多くの失敗を重ね、重大なあやまちをおかしてしまうこともある。そうしてプロフェショナルへの道からはずれてしまう。
 ぼくは、教育という現場で生きてきて、教員たちが本当にプロフェショナルと言えるかと言えば、NO!と言わざるを得ない。長野県で教員免許のない人が学校で教えていたということが問題になった。一応教員免許はプロとしての資格証明である。医師免許は、プロとしての資格証明である。ところが、免許はあってもプロとはとても言えない人がいるのが実態である。
 そこで、現場に入ってから修業してプロに近づいていくことになる。
 だが、学校の中に、新規に任用された若い教員を育てていく仕組みと実践が存在するか。ぼくが経験してきた学校では、NOである。では、大学の教育学部で、プロとして現場に立ってやっていく力を養成してきたかと言えば、それもまたNOである。それにもかかわらず教員採用試験に合格すれば、教壇に立つ。
 育てていく仕組みと実践というのも、特別な機関をつくることでもなく、教師集団が互いに切磋琢磨し、協力し、討議し、教育を創っていこうとする意志集団になっていれば、おのずから教え合いが生まれ、若き教員はそこから学び、自らを鍛えていくことは期待できる。もっとも教員が学ぶ、教えられるのは子ども、児童生徒からである。子どもたちの前に立てば子どもたちから教えられる。しかし、それも、一段高い位置から、「教える存在」として君臨している限り、プロの道は程遠い。
 ぼくの場合、結局、自分で努力して教師になっていくしかなかった。その過程で多くの失敗をやってきた。何度歯ぎしりしたことか。教師失格と思うことが何度もあった。
 「育てること」と「学ぶこと」、組織がそれを忘れると、必ず組織をゆがめる。君臨するものが生まれ、個人が萎縮する。あるいは、烏合の衆に堕落する。