今オレたちは何をしているのか

 

 

 

 1965年2月に、アメリカ軍が北ベトナムへの爆撃を開始して始まったベトナム戦争。今のロシアによるウクライナ侵攻のニュースを見るにつけ、あの頃の反戦運動の大きな高まりを思い出す。

 飯島二郎は書いていた。

 「アメリカ軍は宣戦布告無しに、北ベトナムに、しかも戦場でない都会地に爆撃を始めたことに、私はおさえがたい怒りを感じた。

 私はおよそ政治運動というものをしたことがなかった。だからその怒りをどのようにして発表したらいいのかまったく分からなかった。

 京大人文研の若い友人の、抗議集会をやるから発起人に加われという誘いを受け、私はそれに応じた。私は一回限りのつもりであった。ところが北爆はますます苛烈になった。抗議したものとしてやめるわけにはいかなかった。

 毎月第一月曜日の午後六時に京都市役所前に集まって、デモをする。一週間前にデモの申請を警察署にする。

 このデモは、1973年4月まで、8年間続いた。私は、海外出張で5、6回休んだが、80回以上はデモに参加して歩いている。私はデモの一週間前から飯がまずくなり、デモの前日は必ず神経性の下痢をした。デモの先頭に立つのがはずかしかった。

 下痢は、デモが終わると、すぐに治る。デモが終わった後の気持ちは毎回さわやかだった。内気で臆病な自分のようなものでも、ルカ伝10章の、イエスの言葉『強盗に、襲われて倒れている人がいたら、その人の前を通り過ぎるな』に従って行動できたと感じるからだ。

 それでも、京都べ平連の運動を始めて一、二年の間は、研究の時間をとられることがひじょうに苦痛であった。警察に抗議に行っても警察に言い負かされる。そのたびに自己嫌悪におちいった。

 私は一人で本を読み、論文を書き、バッハを聴き。山を歩いているほうが、はるかに楽しかった。」

 

 この文章は、黒川創の「鶴見俊輔伝」(新潮社)のなかにある。