鶴見俊輔伝 <3>

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 鶴見は、どうせ戦争にとられるなら、海軍で働くほうがまだしもましかもしれないと、軍属のドイツ語通訳を志願した。行き先は日本軍の占領地、ジャカルタの海軍武官府。任務は、連合軍の短波放送を聞いて情報を得ること。士官用の慰安所の設営にあたったこともあった。

 黒川創は次のように書く。

 「(鶴見は)占領地の慰安所に通って、性欲を満たしたいとは思わなかった。現地人の娘を現地妻とすることもできたが、それにも躊躇が働いた。彼には、かつて自分のことを受け入れてくれた年上の接客業の女性たちに対して、あたたかな感謝の気持ちが残っている。だから、国や軍の権勢を背に、その威を借りて女性と関係を結ぶことには、心の抗いが働く。性(セックス)と国家は、彼の中で相容れないものとなって対立する。だから、むしろ、周囲の女性たちに眼球を向けないことに心がけ、心の反応を抑えて、自分の内部の秩序をかろうじて保っていた。」

 「軍から受け取る月給は65円、そのうち三分の二は母にあてて送金した。そうすることで崩れた暮らしをしていないことを証して、母を安心させたかった。あとの三分の一は本を買って読んだ。ジャカルタは日本軍が侵攻するまでオランダの植民地だったので、本屋や古本屋にヨーロッパの書籍がたくさんあった。」

 「この島への米軍による上陸戦が始まれば、殺し合いをすることになる。その時は自殺しようと、アヘンを楽しむ軍人からくすねて、隠し持っていた。」

 日本軍は軍事とは関係のないイギリスの商船を拿捕し、乗船していた人たちを殺してしまうという非道を行う。鶴見の心に終戦後もこの時の体験はくすぶりつづけ作品にも書いた。

 「あのとき、捕虜殺害の命令は、偶然にも自分の隣の同僚に下った。だが、その命令が自分に下っていたらどうしたか。自殺しただろう、と考えることはできる。だが、自殺が間に合わないということもありえた。逃れられないで、自分も捕虜を殺したかもしれない。だとすると、戦場で一度は人を殺した者として、自分は、その後をどうやって生きることになっただろうか。」

 

 鶴見は現地の古本屋で買ったタゴールの本を読んでいた。

 「なせ悪が存在するかという問いは、なぜ不完全なものが存在するかという問いに同じである。言い換えるなら、なぜ創造が行われるかという問いに同じことである。創造はきわめて不完全であり、斬進的なものであることを認めるほかない。」

 

 自分の人生における悪、創造の不確実性、個人もそうであり、社会も、国家もそういうものである。