鶴見俊輔伝を読んだ <2>

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 1995年、「女性のためのアジア平和国民基金」が発足し、鶴見俊輔も「呼びかけ人」に加わった。当時、このことがいろいろな反響を呼んだ。

 この基金は、先の戦争中、日本軍の従軍慰安婦とされたアジア諸国の女性たちに対して、民間から募った「償い金」とともに、総理大臣の名で「お詫びの手紙」を手渡し、あわせて政府予算による医療・福祉事業も行おうというものだった。この事業に対して批判が出た。

 そうして、鶴見が「呼びかけ人」に加わったことにも批判が出た。

 「鶴見俊輔伝」に、そのことについての俊輔自身の言葉を黒川創が記している。

 鶴見俊輔はこう述べる。

 「慰安所は、日本国家による、日本を含めてアジアの女性に対する凌辱の場でした。そのことを認めて謝罪するとともに、言いたいことがある。

 私は不良少年だったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。子どものころから男女関係を持っていた、そういう人間はプライドにかけて制度上の慰安所にはいかない。だけど、十八歳ぐらいのものすごい真面目な少年が、戦地から日本に帰れないことがわかり、現地で四十歳の慰安婦を抱いて、わずかな時間でも慰めてもらう、そのことにすごく感謝している。そういうことは実際にあったんです。

 私はそれを『愛』だと思う。私が不良少年出身だから、そう考える、ということもあるでしょう。でも私はここを一歩も譲りたくない。」

 この鶴見発言に対して、黒川創は次のような感慨をこめて意見を述べている。

 「こういうことを言えば反発が起きるであろうことは鶴見にもわかっていたはずである。従軍慰安婦という立場に置かれた女性から、戦場で死んでいく少年兵に贈られたのは、ある種の『慈悲』なのだと言うことはできよう。あるいは、愛は愛にしても、自己犠牲という言葉を充てることもできるのではないか。そうした配慮が用心深くなしえたならば、あれほどの反発は避けられたのではないか。にもかかわらず、鶴見はそうしなかった。あえて『愛』という無防備な言葉を用いたことにこそ、彼の意志があったと受け取るほかないということである。

 自分と同世代の死地に赴いた少年兵士たち、彼らに代わって、世話になった慰安婦の女性たちに、いま、お礼を述べる――。これは間違った振る舞いであるのかもしれない。だが、それを承知で、このとき鶴見が言い残しておきたかったものは、そういった気持ちだったのではないか。」

 鶴見が呼びかけ人に加わった基金について、鶴見はこう語っている。

 「状況から見て、元従軍慰安婦の人たちが、生きている間に、日本政府の国家賠償が実現できるとは思えない。だとすれば、こんな形であれ『償い金』を実現させて、そのうえで、国家賠償は撤回せずに求め続けていくのがいいんじゃないか。自分たちは(当事者からの抗議に)殴られつづけるほかないと思っている。」

 

 ぼくは、鶴見のとらえ方が彼の人生から来ていると思う。彼は日米開戦時、アメリカら日本に帰ってきて、東南アジアの戦場へ軍属として派遣され、戦場の日本軍と戦地のアジアを知っている。慰安婦にされた女性の尊厳破壊についても、日本軍の実態も目の当たりにしてきた。だからこそ生まれれてきた、慰安婦への想いなのだ。今、韓国では、日本による徴用工の問題も慰安婦の問題も、終戦後84年にもなるのに厳しい矛の対象となって、未解決の問題として浮上している。それは韓国を日本の植民地にし、アジアを侵略し戦場にした歴史の燠(おき)がまだくすぶっているのだ。今もうずく痛みの感情があるということは、人間性も人生も踏みにじられた心の傷が、いやされず、乗り越えられずに、存在するということである。日本人は、日本の政治家は、アジアの人々の心に残る傷の痛みに、あまりにも無知で鈍感であることをまず知らなければならないと思う。そして日本軍の実態を知ることである。その非道の歴史を熟知するならば、日本の国の外交、日本人の精神のありようも、これまでとは変わったものになるだろう。ヘイトスピーチなど国民が許すはずがない。