野の記憶   <2>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収の原作)

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 僕は高校に入って考古学研究会に所属し、遺跡を巡って河内野を歩いた。河内野は南北に長く、中央を石川の清流が流れていた。二上山の麓の傾斜地にはブドウ畑の棚が連なり、その下部は田畑が村々を囲むように広がっている。

「近つ飛鳥」は、この二上山の西麓の地になる。この地が渡来人のコロニーになり、また聖徳太子廟や推古や用明の天皇陵などたくさんの墳墓がつくられ、王陵の谷とも呼ば

れた。そこを「近つ飛鳥」の飛鳥川が流れている。歩けばいたるところで土器のかけらが見つかり、ブドウ畑で鏃(やじり)も見つけた。

 朝鮮戦争に利を得て、日本の工業経済は息を吹き返し、住宅や道路の建設が盛んになり始めていた。道路を建設するために古墳を潰す計画が出て、急遽古墳の発掘調査が行われることになり、その活動に高校生の僕も加えてもらった。その頃からのことだった。どうも河内野の環境変化が気になる。農地をつぶして、あちこちで家が建ち始めていた。

 折しも国木田独歩の随筆「武蔵野」を読んだ。それは不思議な魅力で僕をとらえた。秩父嶺以東十数里に広がる武蔵野、ナラの木が主体の雑木林。独歩は日記につづってい

た。

 「雪頻りに降る。燈をかかげて戸外をうかがふ。降雪火影にきらめきて舞ふ。ああ武蔵野沈黙す。」

 明治半ばの武蔵野の美に、僕は強い憧れを覚えた。

 「武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路をあてもなく歩くことによって始めて得られる。日本にこのような所がどこにあるか。林と野とがかくも入り乱れて生活

と自然とがこのように密接しているところがどこにあるか。道に迷うことを苦にしてはならない。足の向くほうへ行けば必ずそこに見るべく聞くべく、感ずべき獲物がある。」

 独歩の描く武蔵野の四季は、こよなく美しく人間の心に迫ってくる。では河内野はどうなんだろう。すでにそのような広大な雑木林は残っていない。河内野の一部をなす羽曳野丘陵は戦時中に木々を伐採されてはげ山になったままだ。

 国木田独歩に関連して、吉江喬松という人物を知った。彼は信州塩尻で生まれで、早稲田大学卒業後、独歩の画報社に入り、その後パリ大学に留学したフランス文学者だっ

た。独歩が「武蔵野」を発表してから六年、日露戦争が勃発する。そのとき吉江喬松は「自然の寂光」というエッセイを書いた。そこに次のような文章を僕は見つけた。

 「日本の帝都の周囲には、パリの四周に見る如き大きな森林公園が保存せられていない。日本の大都市は都会を保護するための大きな防風林を持つべきである。今ではわずかに残っている武蔵野の雑木の林も松の林も次第に伐り取られて、風の通路は以前よりは一層自由になり広闊になって、国境連山は中途に何のさえぎるものもなく首都の背後から寒冷の大気を縦横に浴びせかける。」

 そしてこの後に喬松は謎のようなことを書く。

 寒波が流れ去った日暮から、不思議な沈黙が大地を支配し、地平線の果てに真紅の雲の群が細長くなびいて、夜の十時頃まで消えない。それは何を意味するのか解らないが、大東京の建設が完全に出来上がった後までも、大都市の中から生存の姿を消し去った後までも残紅は何かを暗示しつづけるだろうと。

 これはどういうことだろう。吉江は何を言おうとしているのだろう。(つづく)