美しい風景にはたおやかな香りがある


 故郷の風景が壊されていくと感じたのは、高校生のときだった。地元には西国札所の葛井寺(ふじいでら)があり、見事な石垣が境内を囲んでいた。石垣の内側の境内にはイチョウケヤキの大木があり、街道を覆うように枝を伸ばし、晩秋になると街道いっぱいに落ち葉して黄葉の絨毯を敷いた。ところが高度経済成長期に合わせて、町の発展のためには街道を広げて商店街にする必要があるという意見が勢いを占め、石垣は取り壊され、巨木も伐採されてしまった。
 それから見る見るうちに河内野の田畑は切り売りされ、宅地開発に蚕食され、人家に埋め尽くされた。後に気づくことになる「美しい風景にはリズム、ハーモニー、メロディがある」という美観の原則はまったく考えられもしなかった。古墳の緑を除くと、屋根を超して枝を伸ばし、生命の美を謳う緑の木々はどこにもない。並木道もない。「美しい風景は美しい音楽と同じで、リズム、ハーモニー、メロディがある」。
 「風景の美は曲線にある」「曲線は生命体である」という理も後に気づいたものだが、日本の景観が何故にこんなに惨憺たるものになってしまったのか、それを実感したのは、20数年前、栃木県の那須高原においてであった。麓から那須岳の方へ見事な松林の道を登っていくと、美しい高原地帯に入る。ペンションや店、別荘、美術館が点在する。目を奪ったのは、野放図な看板と標識、直線の人工物の林立だった。目立てばいいと言わんばかりに、風景の雑木林を、四角な看板と標識が邪魔をして、調和を乱す。醜悪な壊し屋の姿だった。
 奈良の御所市に住んだときは、大和の景観の変化に愕然とした。奈良市の方へ盆地を車で縦断していくと、大和の盆地も醜悪な風景がアメリカシロヒトリの大繁殖のように広がっている。「大和は くにのまほろば」はもう点になってしまったのか。そこへ持ってきて、看板の色である。赤や黄色のぎらぎらする原色が多い。自然界には原色はほとんどない。自然の生命は自己を目立たせる必要がなく、むしろ野生生物は自然の色に調和して溶け込もうとする。経済動物の現代人が看板を目立たせるために、やたらと原色を使うのは、自然の摂理に反する行為で、自然の摂理に反する生き物は、将来滅びの道をたどる。
 そして13年前信州安曇野に移住したら、ああ、ここにも進行しているではないか、とため息が出た。「リズム、ハーモニー、メロディのある景観」という視点がない。人工物の直線が自然界の曲線を駆逐しつつある。
 美観の原則、もう一つ。「美しい風景にはたおやかな香りがある。」