山田多賀市の「生活の仁義」に描かれた職人気質

 堀金公民館で毎週日曜日に開いている日本語教室でのこと。スタッフの高橋さんが、コピーのつづったのをぼくに手渡し、
 「私の参加している読書会で読んだ小説です。安曇野の堀金三田出身の小説家で、戦時中の雑誌の掲載ページのコピーです。読んでみて感想を聞かせてください。」
と言った。コピーのタイトルは「生活の仁義」、作者は山田多賀市とある。
 山田多賀市(1908-1990)の名は知ってはいたが、どんな人であるか知らなかったし、小説も読んでいなかった。家の光協会が出版した「土とふるさとの文学全集」の第四巻には、長塚節の「土」に並んで、小説「耕土」が収められていたが、それは読まずにいた。

 山田多賀市は家が貧しく、小学校四年の途中から大工の家に奉公に出され、建設作業や土工となり、21歳から甲府で手作業のカワラ焼き職人として年季を積んだ。カワラを焼きながら農民運動に参加し、小作料引き下げ闘争などにも加わった。だが胸を病む。そして小説を書き始めた。昭和12年(1937)、はじめて彼の短編作品が「人民文庫」に掲載された。
 折しも日本は軍国主義が吹き荒れ、侵略戦争にのめりこみ、彼の小説は反戦的であるとして検束を受けること十数回に及んだ。昭和8年には小林多喜二特高警察によって虐殺されている。
 高橋さんが言う。
 「多賀市は、昭和18年、35歳の時、戦争に反対し、徴兵をのがれようと死亡届を偽造して出したんですよ。だから戸籍が無いんです。」
 多賀市の戸籍はなく、戦後も戸籍の復活を拒否した。代表作「耕土」は昭和15年(1940年)の作、「生活の仁義」は昭和16年(1941)年に発表している。コピーのページをぱらぱらめくってみると、昭和16年出版の雑誌だったから、広告のページに戦意高揚を呼びかける言葉がでかでかと出ている。
 高橋さんは、「耕土」と「生活の仁義」は当時の芥川賞予選候補に上がっていたと言った。コピー集を借りて帰って読んだ。時代にほんろうされ、職人の身を削る実態がありありと迫ってくる。この時代によくまあこんな小説を発表できたものだと思う。
 作品のなかで出会った「渡り職人」と呼ばれる人たち、彼らは社会の情況にあわせて、職を求め各地を遍歴する孤独な人びとで、彼らには彼らの仁義があった。江戸時代からつちかってきたのであろう「仁義」と「信義」に、ぼくは強い感銘を受けた。その一部をここに抜粋する。


 ◆渡り職人の持ち物といえば、生瓦を切る鉄片と叩き板、それの磨きゴテ一丁だけ、腹がけのドンブリ(職人の腹がけの前かくし)へしのばせて、印半纏(しるしばんてん)に股引(ももひき)で、文字どおり着たきり雀のからっけつだった。渡り者は職場の入口へ現れると、働いている内(うち)職人(しょくにん)に向かって目礼をし、一足後ろにさがって身をひらき、
 「お控えなせえ、親方さんにござんすか、お友達さんにござんすか、間違いましたらごめんなさい。御同職の仁と見立てまして発しまする。」
と声をかけた。
 「発しまする、手前、生国と申しまするは○○にござんす。○○と申しましても広うござんす。」
と、生国、生い立ち、姓名を名乗り、この辺の職場一般の情況をたずねてから、働かせてくれと、仕事を求めるのであった。渡り者の大部分は、あてにして来た職場で仕事にありつけず、次の仕事場をさがして歩く失業者が多かったが、なかにはつい最近年期が明け、まだ至らぬ腕を磨く修業のために、日本全国の生産地をめぐって歩く、駆けだしものもあった。彼らの述べる口上を聞いていれば、生国、生い立ちを述べる言葉のうちに、何年前、どこの誰の徒弟になって、いつ年期が明けたというので解った。去年か今年年期が明けた駆けだしものなら修業に来たものだし、それより以前だと失業者である。
 口上を受けた内職人は、渡り者に座を与え、
「失礼さんにござんすが、お持ち合わせがあったらおつけなさい。なかったら、つまらんものでござんすが。」
と、自分の煙草入れを差しだす。たいていの渡り者が、持ち合わせの煙草すらなかった。
 渡り者に一服吸わせておき、内職人は親方の所へ行って、職人がかわってきたことを告げ、自分たちの仕事をまわして、働かせてやってくれないかと、頼み込むのである。幸い仕事の手張っている時なら親方も働かせると言うが、そうでない時は、いくばくかの草履銭を紙に包んで親方が渡り者のところへ行き、せっかくだが今のところ景気が悪いので、と断り、草履銭を与えて、すぐ近くの職場の在所を丁寧に教えてやる。また夕方近くだと、一宿一飯の世話をした上で、翌朝草履銭を与えた。
 ◆日本全国の職場を股にかけて、一宿一飯の世話を受け、草履銭だけもらって次つぎと歩いているあぶれものもいた。有名な者に、「駿河の入れ墨作造」、「信州須坂の好(よし)」、「甲州河内・目玉の正(まさ)」、「三州新田・裸の六太」、「三日又重」などというのがいた。こうした者のことを、まじめに働いている職人たちは、バンク者と名付けて、特別扱いにしていた。バンク者は、日本中の職場を一巡するのに二年くらいかかり、川を越え、山を越えて歩いていた。二年目ごとぐらいに顔を見せる彼らは、一宿一飯の世話を受けた夜、たずねられるままに全国のカワラ生産地の情況、職人の所在や親方の気質まで、雄弁に語った。だから彼らはこの世界の新聞であり、ジャーナリストの役割をはたしていたのである。気が向くと二三日働いていくこともあったが、その仕事は見本にするほど立派な腕を見せた。もうぼつぼつ入れ墨の作の来るころだがなどと、内職人たちは彼らの来るのを心待ちにしているくらいであった。
 ◆一円とは、先進地の三州より安い賃金だ! と職人たちは親方の提議に驚いた。賃金の下落しているのは信州だけではなかったが、彼らが信州くんだりへわざわざ出稼ぎに来るのは、関西地方の先進地より仕事が楽で、賃金がいくぶん割高なことを予想して来るのだった。だが親方組合二十名と、職人側組合の長老との間で、五日に渡って折衝をかさねた結果、どうしても職人の作料は一円より出ないということになってしまった。
 (組合の総会があって十日過ぎであった。) 結局、職人側の言い分が無理だと断定された。
 草履をはくんだ! 元気のよい職人たちの間に、この意見が強くなってきた。ここ数年来、好況にめぐまれてきた彼らは、しばらく草履をはかなくて済んだが、第一次欧州大戦以前には、二年に一度くらいの割で草履をはかなくてはならなかった。草履をはくというのは、主として賃金の折り合いがつかぬ場合が多かったが、何の理由もなく不意に働かせている一人の職人を追い出した場合とかもあった。
 ◆草履をはいた職人たちは、盆になってもまだ口上を述べて渡っている者もあったにちがいない。けれどもいったん草履をはいた場所へは、問題にけりがつくまでは、のたれ死んでも帰ってこないのが職人仲間の掟であった。掟を裏切るものはいなかった。
 草履をはいたのは、松本近郷だけでなく他にもあったとみえ、彼らの去った後、甲州路や駿河方面から、職人の群れが幾組も渡ってきた。この人々も、人が草履をはいた後だと知ると、一宿一飯の世話を求めるだけで、けっして働かせてくれとは言わずに立ち去った。彼らは仲間の草履をはいた後で働くのは信義を裏切る恥と心得ていた。親方の方も固くそれをまもって、どういう理由にせよ、職人の草履をはいた後へは、決して他の職人を入れなかった。