リトアニア杉原千畝記念館修復をした人たち


 リトアニア国の杉原千畝記念館の修復をやっているボランティアのニュースを見た。その工事に携わっている彼らは、元暴走族だったり、元暴力団員だったり、経歴はいわゆる「札付き」の人であるけれど、生き方を変えた彼らの仕事はすばらしく、工事が完成した時の彼らの満足そうな笑顔には、信頼によって生きることの確かな喜びが現れていた。
 第2次世界大戦中、日本の外交官杉原千畝は、リトアニアカウナス領事館に赴任し、ナチス・ドイツの迫害を受けてポーランド等欧州各地から逃れてきたユダヤ人難民たちに同情し、「命のビザ」を発給した。カウナスには、今もそのときの旧日本領事館がある。日本のペンキ職人集団、全国の塗装業者らでつくる団体「塗魂インターナショナル」のメンバー約60人は、老朽化して雨漏りのひどくなっていた記念館の外壁を修復した。塗料も昔の建設当時のものを使うという困難を克服しながら、彼らは塗ることに心をこめ、杉原を顕彰した。
 刑期を終えて社会に戻ってきても、「前科者」として受け入れられず、再び罪を犯して刑務所に舞い戻るケースが多いが、その原因は、人間社会の寛容さの欠如や、差別意識の強さが根底にある。だが、この塗装集団の企業主は違っていた。前歴は関係ない。今がどうなのかだ。彼らを雇用し海外に送り出し、人の役に立ち、感謝され愛される場を生みだしていく。このような企業主がいて、このプロジェクトが可能になった。企業主も、職人も、明確な目的を持つ。それが仕事に結実した。
 杉原は、1940年、外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼるユダヤ人系避難民を救った。
 ソ連の占領下にあったリトアニアに対し、ソ連は領事館・大使館の閉鎖を求めた。1940年7月18日の早朝、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。
 「6時少し前。表通りが、突然騒がしくなり、次第に高く激しくなってゆく。私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、ヨレヨレの服装をした老若男女ざっと100人がこちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」(千畝の回想)
 政府からは、ビザ発給条件厳守の指示が来ていた。だが杉原は、苦悩の末、「人道上どうしても拒否できない」と、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過ビザを発給した。ビサは杉原の家族の乗る列車がカウナスを出発するまで書き続けられた。
 戦後24年の1969年、日本政府の許可なしに失職覚悟で千畝はビザ発給を行なったことをイスラエルは知って驚愕する。しかし日本政府の冷淡さは変わらず、杉原のやったことは無視され続けた。このような日本政府の姿勢に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、1981年に出版された千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と書く。1983年、フジテレビが「運命をわけた1枚のビザ―4,500のユダヤ人を救った日本人」を放映した。1985年、イスラエル政府は、多くのユダヤ人の命を救出した功績で「諸国民の中の正義の人」として杉原を表彰した。
 2000年、やっと河野洋平外務大臣は杉原の名誉回復を行なった。