ドイツの償い  

 犯した罪への心の痛みを、鋭く感じる人とそれほど感じない人とがいる。国という大きな組織集団が犯した罪は国家が贖罪しなければならないが、そのとき、国の犯した罪に対して、国民として痛みを感じる人と感じない人とがいる。
 日本とドイツの戦後の贖罪の歩みは異なる。しかしまた共通する現象もある。

 ドイツの行なった過去との対決では、草の根のNGO(非政府組織)が重要な役割を果たした。最も大きい存在だったのは、「償いの証(ASF)」である。
 1985年、ドイツのヴァイツゼッカー連邦大統領は、有名な演説「荒れ野の40年」のなかで「償いの証(ASF)」を讃えた。「償いの証(ASF)」はどんなことをしたか。
 「償いの証(ASF)」は、ドイツの若者にナチスの暴虐の歴史を、体験と対話を通じて学ばせた。なぜファシズムが台頭したか(Why)、どのような悲劇を生んだか(What)、どうすれば悲劇を防げるか(How)、それを考えさせつつ、ナチスによって被害を受けた人びとへの、次のような体験活動を推進した。
 生きて強制収容所から帰還した人たちの介護、ポーランドチェコ強制収容所の保存と修理、盲学校の建設、障害者への支援、スラムでの福祉活動、麻薬中毒者への救助、このような、汗を流して現場で働く活動を行ない、被害者と直接対話することによって、単なる知識ではなく自分の問題として「生の体験」を心に刻む活動を重視して実施した。
 「償いの証(ASF)」は、発足当初、「融和のための奉仕活動」という名前を付けていた。すると、ユダヤ人やオランダ人から、
「我々は、君たちドイツ人と融和できるかどうかわからない。融和という言葉を使うのは適当ではない。」
と批判された。被害を受けた周辺国の反感は厳しかった。
「われわれドイツ人が奉仕すれば、必ず融和が実現すると思ってはならない。融和が実現するかどうかは、相手国がドイツをどう見るかにかかっている。」
 活動の発起人ハマーンシュタインはそう語り、活動の在り方を考えて、名前を「償いの証・平和のための奉仕活動」に変えた。
 ドイツ人は、アウシュビッツの被害者の体験を聴いた。そうして、被害者の心を圧迫していた石を受け取り、被害者の重荷を一つひとつ取り除いていくことができるようにした。
 アウシュビッツで殺された無数の人たちの履いていた靴が収容所に残されていた。「償いの証(ASF)」のボランティアはそれを一足一足磨いた。ボランティアにとって心の痛む苦しい体験だった。
 「償いの証(ASF)」は、ドイツの若者に対して、アウシュビッツ強制収容所を訪れる8日間の学習旅行も実施した。この学習旅行に参加する生徒には、学校は研修休暇を与えた。参加した生徒たちは午前中、強制収容所の修復作業や所内の草取りなどをする。午後は所内の見学と、生存者との対話を行なう。この学習旅行には今も多くの若者が参加している。
 このような体験を通じて、ドイツ人は周辺国や諸民族との信頼と友好の関係を築いていった。

 日本でも志をもったボランティアが、被害国へ赴き、罪を償う活動をしてきた。だが日本と韓国、北朝鮮との関係、日本と中国、アジアの諸国との関係において、今もなお吹き出てくる被害者の痛みがある。その痛みに応えることができないのはなぜなのか。一人ひとりの被害者の、個のなかに、今も傷が疼いているとしたら、どうすべきなのか。

 「ドイツは過去とどう向き合ってきたか」(熊谷徹 高文研出版)から教えられた。熊谷徹氏は、元NHK記者、現ミュンヘン滞在のフリージャーナリストである。