今の日本の政治と竹内好の見た8.15


 中国文学研究者の竹内好(1910〜1977)は33歳で召集され、中国戦線に配属された。部隊は老兵や学徒兵や寄せ集めの弱卒ばかりで、それでも実戦に出た。彼は殺さなかった。敗戦のとき部隊は洞庭湖にのぞむ岳州にいた。
 戦後1953年、雑誌「世界」に「屈辱の事件」と題した文章を竹内は掲載した。そのなかにこんな文章があった。
 「8.15は私にとって屈辱の事件である。民族の屈辱でもあり、私自身の屈辱でもある。ポツダム革命のみじめな成り行きを見ていて、痛切に思うことは、8.15のとき、共和制を実現する可能性がまったくなかったかどうかということである。可能性があるのに、可能性を現実性に転化する努力を怠ったとすれば、子孫に残した重荷について私たちの世代は連帯の責任を負わなければならない。
 記録によると、政治犯の釈放の要求さえ、8.15の直後に自主的に出たものではなかった。私たちは民族としても個人としても、8.15をアホウのように腑抜けて迎えたらしい。朝鮮や中国にくらべて、これはたまらなくはずかしいことである。明治の私たちの祖父にくらべてさえはずかしい。
 日本の天皇制やファシズムについて、社会学者の分析があるが、私たちの内部に骨がらみになっている天皇制の重みを、苦痛の実感で取り出すことに、私たちはまだまだマジメでない。ドレイの血の一滴、一滴しぼりだして、ある朝、気がついてみたら、自分が自由な人間になっていた、というような方向での努力が足りない。それが8.15の意味を、歴史の中で定着させることを妨げているように思う。
 ファシズムが猛威をふるったことが、私たちを力なくさせたのだが、朝鮮や中国ではファシズムの猛威が逆に抵抗の力を強めている。だから、ファシズムによって骨抜きにされたことについての、私たちの道徳的責任は、そのことで解除されない。8.15のとき、人民政府樹立の宣言でもあれば、たといかぼそい声であり、その運動が失敗したとしても、今日の屈辱感の幾分かは救われたであろうが、そのようなものは何もなかった。高貴な独立の心を、8.15のときすでに、私たちは失っていたのではないか。支配民族としてふるまうことによって独立の心を失い、その失った心のままで、支配される境地にのめりこんでしまったのが今日の姿ではないだろうか。」
 この文章を読んだ時、ぼくはウーンとうなってしまった。こういう見方、こういう指摘があったんだ。ぼくは驚嘆した。
 竹内は、中国の戦場にいて、日本は敗北すると予想していた。アメリカ軍が本土に上陸し、住民を巻き込んで沖縄戦のような決戦が繰り広げられると想像していた。そして、主戦派と和平派に日本は分裂し、そこへ革命運動が猛烈な勢いで巻き起こってくる。そうなると国内の人口も半減するだろうと竹内は夢想した。しかし、人民の動きは何もなかった。動こうにも動けなかった。戦時下では、革命的な動きは小さな芽のうちに摘み取られていた。
 鶴見俊輔は、この文章について、
「国民が国家の命令で、一億一心に固まるとき、固まらされることを拒んで、一個の異分子としてそこにいる。それは時の政府に対して抗う力を保つ個人であり、国家の外に立つことを夢見る異分子を含む国民である。それが竹内好の国民のとらえ方であり、これをナショナリズムとしてピンでとめることは難しい。」
 戦後の日本の出発点8.15、日本の民衆自らが戦争犯罪を裁く運動は起きなかった。牢獄の三木清を救い出すこともしなかった。ファシズムの根底を突く闘いは起きなかった。
 1960年、自民党日米安保に反対する諸政党の意見をかえりみず、議会の中での絶対多数の力で、衆議院内に警官隊を導入して強行採決した。首相は、戦時中の大臣であった。
 竹内は大学に辞表を出した。自分は大学教授になるとき、憲法を尊重し擁護することを誓って職についた。しかるに公務員の筆頭、首相も国会議長も憲法を無視した。
 それから58年目の日本。60年から連綿とつづいている。日本の政治と民衆や、如何。
 今の政治、政治家、日本の民主主義は、1945.8. 15から何を確立してきたのだろう。