ファシズム



 60年、日米安保条約が、国会の強行採決で採決され、有無を言わせぬ強引なやり方で反対運動を押しつぶした。
 その時、竹内好は、「政府の強行採決を見過ごすことは、国家権力の独裁制への道を拓くことだ、民主か独裁か、どちらの道を歩むかという分岐点にある。掘立小屋のようなのでもいい、根拠地のようなものを築きたい」、と言った。
 鶴見俊輔は、「竹内好のよりどころは個人であり、個人が個人へと精神革命の志を伝え、受け継いでいくことだ」と言い、根拠地の必要性に共鳴した。
 その数年後に成田三里塚闘争が起こる。閣議で、三里塚に空港をつくると、抜き打ちに決定したのだった。そこに住んでいる住民を立ち退かせて、営々と汗水たらして先祖から耕してきた農地を新東京国際空港に変えてしまう計画であった。農民と支援に入った学生による激しい反対運動が起こった。数千の武装した警察機動隊が警棒やジュラルミンの楯、ガス銃を使ってそれを鎮圧した。何人もの農民、学生が死んだ。ガス銃で撃たれて死んだ人もいる。自殺した人もいる。機動隊員からも死者が出た。それは戦争だった。日本の国家主義が現存していた。国が農民の地を侵略し奪い取っていく行為だった。
 反対同盟の戸村一作委員長は、キリスト者であり彫刻家であり、農業機械の修理業でもあった。彼は話した。
 「この地には十万本の防風林の桜並木があったのです。農民が大事にした木で、桜は春の訪れを知らせてくれました。ここはもとは御料牧場でした。私の少年時代の三里塚は牧歌的で、ミレーやルソーやコローがやってきて、そこに暮らしながら絵を描いたあのバルビゾンのような美しいところでした。ミレーの『落ち穂拾い』や『晩鐘』の絵のような風景でした。パリからバルビゾンまで六十キロ、東京から三里塚まで六十キロ、私は三里塚を『日本のバルビゾン』と呼んでいました。積みワラが高く積まれ、牧場には羊が草をはむ。ルソーの描いたフォンテンブローの森の絵のような森かげに、夕日が沈んでいく。牧夫が家路を急ぎます。三里塚の秋は、ケヤキクヌギ、ヌルデが黄葉し、それはそれは美しい風景でした。この地にたくさんの人が全国から絵を描きにやってきました。私も絵を描くようになりました。ここは心の故郷だったんです。」
 その地はコンクリートの下敷きになった。空港は1978年開港した。
 戦後、国家による民への侵略は、「水俣病」という形にもなって現れた。その長い闘いは今も終わっていない。
 その渦中に入って漁民たちとともに生きた石牟礼道子さんがついに亡くなられた。彼女は、ひとつの根拠地をつくった。
 前史は明治にさかのぼる。
 足尾銅山鉱毒渡良瀬川沿岸に激甚な被害をもたらし始めたのは明治一二年。政府は不当な安価で足尾の山を古河市兵衛に払い下げ、ここに銅の精錬場がつくられた。燃料に足尾の山の木々が使われた。
鉱毒は山の木々を枯らし、保水力を失った山は洪水を引き起こす。鉱毒を含んだ水は渡良瀬川の川魚を殺し、沿岸の農地に流れ込んで田畑を汚染し不毛の大地に変え、十万人の農民の生活は破壊されたのだった。
 明治三三年、川俣事件が起きる。被害農民は政府に請願するために行進を始めた。一万数千人の農民が利根川べりの川俣に来た時、警官隊と憲兵隊が待ち受け、暴力による阻止行動を行なった。武器一つ持たない農民たちはたくさんの負傷者を出し、兇徒として罪を問われた。
 政府は鉱毒問題を治水問題にすり替え、洪水を防ぐためと称して谷中村を遊水池にする計画を立て、谷中村を破壊した。
 田中正造は明治三七年、水没したその谷中に入り、残留民16戸、百余人と生きた。
 明治四二年三月、正造は議会に質問主意書を提出した。
 「およそ憲法なるものは、人道を破ればすなわち破れ、天地の公道を破ればすなわち破る。憲法は人道および天地間に行なわるるすべての正理と公道にもとづきてはじめて過(あやまち)すくなきを得べし。」
 一九一三年、田中正造死す。
 最期をみとったのは信州松本出身の社会運動家で作家だった木下尚江だった。木下尚江は、内村鑑三とともに無教会派のキリスト者だった。田中正造は一切財産をもたず、所持していたのは、日記、ちり紙、聖書だけだった。