二つの敗戦<2>


 竹内敏晴は子どものころ難聴だった。12歳から16歳までの旧制中学時代、聴力はなく、言葉はしゃべれず、それがためにいじめにもあった。17歳、旧制第一高等学校に入学、先輩たちによる新入生歓迎コンパに出た、そこは、自閉的で孤独な軍国少年の竹内にとって生まれて始めてのオフイシャルな場であった。酒を飲め、すべてを疑え、崇高なるものそれは自由だ、ベートーベン、ゲーテドストエフスキー、人類の輝く文化が一挙に襲い掛かった。驚愕のストームだった。竹内は自己紹介も満足にできず笑いものになった。
 竹内は絶望的になった。自分は相手に届く言葉を持っていない。ますます自分の中に閉じこもった。ことばを見出さねば――、あがきと混乱のなかで、出会ったのがデカルトの「精神指導の規則」だった。「事物の真理を探究するには方法が必要である」、このことばは大きな衝撃となった。そこから、「ものごとも、心の動きも、まずはっきりと見ること、見えたものを見えたままに語りうることばを見つけ出すこと」、竹内敏晴の修練が始まる。
 1945年8月14日の夜9時ごろ、一人の友人が竹内を廊下に呼び出し、「日本がポツダム宣言を受諾した、明日正午、天皇の放送がある」と耳打ちした。友人の保証人は元大蔵大臣の賀屋興宣で、情報はそこから得たものだった。校内には空襲で焼け出された安倍能成校長が住んでいた。即刻二人は校長を訪れ話を聞く。その夜、校長は教授たちを招集し、軍がどういう行動に出るか分からないから軽挙妄動することのないようにと伝えた。
 朝になって部屋に戻った竹内は心の状態を次のように記している。
「明るくなり始めた。淡い美しい青い空だった。熱いものが突然私の胸にふきあげてきた。世界は変わってしまったのだ。だのに太陽がやっぱり東から昇ってくるんだ。なぜ今日が昨日と同じなのだ。何とも言いようのない絶望感だった。」
 銀杏並木に兵隊たちが並び始め、一高生徒たちは動員先の工場へ出て行く。号令が響き、整列した兵隊たちは宮城に遥拝する。その時、不意に視界にさっとひとはけ、かげがかすめ、目の前の風景がかたまって遠くなった。何かがくるりと反転して抜け落ちた。
 「世界中の人びとが、日本が敗れたことを知っている。世界は次へ向かって動いている。だのに、この目の前では人びとが昨日までのまんまのリズムで同じ生活をしている。これはなんだ。これは事実。まちがいのない、手に取れる、鮮やかな。同時にこれは意味の失われた、架空の幻影にすぎない。必死になって、目の前に見える世界が崩壊し、二重うつしになってゆくのを耐えていた。本当の世界とはいったい何か。これほど確実な目の前の事実、手にとれるものが、まったくニセモノなのだというのは、どうしたらいいのか。
 ‥‥その時以来、私にとって事実と真実とが分離していった。事実の真の姿とか、リアリティとかいうものは、常に二重の構造を持ち、両義的なものとして私に立ち現れた。」

 戦争は終わった。日本は敗れた。それから一、二日して、竹内に新しい衝撃がやってくる。