二つの敗戦<3>


 「新しい衝撃は、一、二日あとにやってきた。『ああ、生きてもいいのだ!』、まるで目の中に太陽のかけらが飛び込んだように目の中がまっ赤になり、くらんだ。『戦争で死ななくてもいいのだ!』。
 十年のちに、私が生きているということがありうるのだ、ということに気がついたとき、私は頭がくらくらした。どういうことだか見当もつかず、ただあえいでいた。それまでの私は、ただ死だけを見つめていた。たぶん半年あと、長くても一年ぐらいあとには確実にやってくる戦死を。それまでの一分一秒をどう埋めていくかだけが私の見える領野だった。一挙に生命は無限大になった。私はただあえぐばかりで耐えられそうになかった。」

 そして戦後の混沌が襲った。闇市進駐軍、パンパンの街、竹内は飢え、栄養失調になり、ことばがなくなった。語ることができない、語ることがない。戦死はまぬかれた。これから生きることはできる。にもかかわらず、竹内は自殺を考え、山をさまよい、しかし決行には至らなかった。
 1946年4月、竹内は東大で、竹内好の講演『中国における近代意識の形成――魯迅の歩いた道』を聴いた。そのとき心に残った言葉があった。
  ――魯迅は自分を新しいものと考えたことはなかった。いつも古いものとしてとらえた。そして自分の古さを徹底的に憎むことによって中国の社会の古いものと闘った。――
 そのことばは新しい時代に生きうるという発見となり、わずかに心を輝かせた。
 道端で遊んでいる子どもを見た。ふいに涙が流れた。おれはもうダメだ。新しく生きられない。しかし、もう二度とこの子どもたちに、おれと同じ教育はさせない。おれのゆがみをテコにして、おれと同じように人間性を圧殺する教育を子どもたちに向けようとするものをかぎわけねばならないと思う。
 竹内敏晴は神田をまわって、魯迅全集を買って帰って読んだ。
 「絶望の虚妄なること、まさに希望と同じい」、
 鈍器で心臓をなぐられたような気がした。絶望は虚妄だと言い切っていること、これが心を切り裂いた。絶望は虚妄ではない。竹内の心を占め、うずかせ、生きていることを感じさせる唯一の痛みだから。にもかかわらず、確かに絶望は虚妄なのだ。「絶望」と一言名づけたとたん、その心の痛みを対象としたとたん、それは実体化し、その限定によって支配し始める。固定化した実体としての「絶望」などはないのだ。虚妄だと見すえたとき、その視線は真実であると言ってもいい。
 だが「虚妄であることは真実だ」と言ったら、その刹那にすべては虚妄と化す。この油断のならぬ角逐に、おまえは耐えてゆけるか? と自分に問いかける。
 そこを出発点として、それを手がかりとして、竹内敏晴は歩み始めたのだった。竹内敏晴の「敗戦」であった。