[教育] 『人間に成る』仕事

 一九二五年に魯迅は学生との往復書簡(両地書)を記録している。
 魯迅に学生が問う。
 「教育は人間に対してどれほどの効果があるものでしょうか。私にはどうしても解りません。世界各地の教育、その人材を育成する目標はどこにあるのでしょうか。国家主義社会主義‥‥を唱える人たちは、環境の支配を受けて、何とか何とか化の教育を案出していますが、そもそも教育とはどういうことなのでしょうか。多くの環境に適合する人を、個性を損なってもかまわずにこの環境に順応させることでしょうか、それとも何とかして各人の個性を尊重した方がいいのでしょうか。‥‥」
 魯迅が応える。
 「今日の教育なるものは、世界のどの国にしろ、環境に適合する道具を数多く作る方法にしかすぎぬのが実情です。天分を伸ばし、おのおのの個性を発展させるなどは、今はまだその時代になっていないし、おそらく将来、そういう時代が来るかどうかもわかりません。私は、将来の黄金世界にあっても、おそらく反逆者は死刑に処せられるだろうし、それでも人々はそれを黄金世界と思っているのではないかと疑います。」

 1970年代に、竹内敏晴は語りかけた。
 「この絶望に抗い、反乱したからだを内的な調和にまで持ち来たし、『人間に成る』仕事をねばり強く手助けしようとしている教師たちが各地にいることも、多少は私も知っている。彼らは、その意味では、この、からだの荒野であるところの日本の教育界に、いわば魂の泉をひらく先駆者たちであるといえるだろう。今こそ教育者ということの意味が、明治以後はじめて根底的に問われているのだと言ってもよい。」

 あれから半世紀近くが経つ。魯迅の提起からは一世紀近くなる。今、学校は『人間に成る』仕事をしているだろうか。学校教育は、一人一人を活かし、この世界に希望をもたらそうとする営みになっているだろうか。