二つの敗戦<1>

 3.11、東日本大震災は、第二の敗戦であると言った人がいた。第一の敗戦は1945年、そして2011年は第二の敗戦。敗戦というとらえ方には異論があろう。
 震災発生から3年がたち、データは次のように示している。
 死者・行方不明者は1万8517人、現在の避難者は26万7419人、震災関連死が2916人。
 震災関連死というのは、避難生活で健康を害して命を失ったり、絶望から精神をわずらい自らの命を絶ったりした人たちだろうか。
 「第二の敗戦」というとらえ方、どうしてそう言えるのか考えてみる。
 第一の敗戦1945年は、明治元年から77年目に到来した。富国強兵政策で世界に冠たる軍事国家をめざし、日清、日露、第一次世界大戦の三つの戦争をして勝利者の側に立つ。そして15年戦争に突入したが、連合国の包囲の中敗戦を迎え国土は焦土となった。
 第二の敗戦、2011年東日本大震災は戦後66年目、産業技術大国、経済大国、原発大国の道を突き進み、バブル崩壊後の混迷を経て、巨大地震津波、未曾有の原発事故に襲われた。
 両者を比べれば被害の規模はまったく異なり、2011年の震災は侵略戦争ではない。しかし、国の歩み、国策の過程がもたらした巨大な破壊と悲惨であることは同じである。奪われた多くの命は還っては来ぬ。
 竹内敏晴(1925年〜2009年 演出家・演劇研究所主宰、宮城教育大学教授)が、自己の体験をもとに戦前から戦後にかけての記録を書いている。「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社 1975)。

 <1945年9月、旧制高校の生徒だった私は実家に帰っていた。敗戦の一ヵ月あとのことである。私は一日中何もしなかった。‥‥
 ある日、父が私を呼び止めた。少し話があるからまあ座れ、と言う。
 ――おとうさんは気味が悪いのだ。お前は確かに異常だ。昼間は一言も口をきかない。帰ってきてから一度も話さなかった。それなのに、夜、眠っているときに笑っている。――
 ‥‥実のところ私は、昼間一言も口を開かなかったという自分に、そのときまでまったく気づいていなかった。‥‥私が口を開いてことばを話し始めたのは、たぶんもう半年かそこらあとだったろうと思う。‥‥
 敗戦のときにことばを失った人は、きっとたくさんあるにちがいない。そのほとんどは生活の必要の中でいやおうなしに恢復していった。しかしたぶんその後30年近く、日常生活に最小限必要な単語だけを残して、何も語らなくなったまま、生き続けている人がかなりいるのではないか。>

 「その後30年近く、日常生活に最小限必要な単語以外は、何も語らずに、生き続けている人がかなりいるのではないか」、という。それほど心の傷跡が深かった。この著作の初版が1975年、戦後30年目である。したがって、何も語らないで生き続けている人はその後もずっと続いていて、2014年の今もそういう人がおられることが予想できる。
 竹内は、自分の生い立ちから始まって、一高生徒になり、終戦を向かえ、戦後の精神の傷を乗り越えていった軌跡をつづっている。