除夜の鐘


(今も建設が続くサグラダファミリアの大教会)


 今日の「天声人語」に、除夜の鐘を「うるさい」と感じて苦情を言う人が出ていることが書かれていた。
 「うるさい」「何時までつくんだ」、苦情は3年続き、除夜の鐘をやめた寺がある。それから10数年後、先代住職の後を継いだ息子の住職は除夜の鐘のかわりに、大晦日の正午からつき始める「除夕(じょせき)の鐘」にした。それが好評だという。静岡県のお寺の話。保育園の子どもの声に「うるさい」と苦情を出し、保育園をつくることに建設予定地の周辺の人からの反対があって、建設がとん挫しているところもあり、思いもかけないところに苦情の種が潜む現代だと「天声人語」は書く。
 人間の感情に結び付く感覚が、変化してきているのかもしれない。小さな子どもの激減した現代の日本社会では、子どもの声を耳にすることが極端に減った。それが人間の感覚に影響もしているのだろうか。
 小さな子どもは、周囲に配慮して声を発するということをしない。赤ちゃんは、全身で泣く。幼児は全力を挙げて叫び、友だちと交信する。それが幼い子どものコミュニケーションであり、生命の勢いである。生きようとする力である。それを抑えることは成長を抑えることである。人類の歴史で子どもの声を抑制したのは危害が迫っているとき、敵からの襲撃を避ける時だった。そこには戦争や紛争が絡んでいる。
 小さな子どもの声が聞こえる社会は、生命が保障されている社会であることを示している。人類の歴史を通じて、人びとは子どもの声を心地よいものと感じる感性をもっていた。それがこの日本では、「うるさい」と感じ、排除しようとする感性に変わってきているとしたら、これはもう末期的症状というしかない。小さな子どもの声をうるさく感じるのは、極限の少子化社会に生きる人間の自然喪失を意味し、生命社会の弱体化であるように思える。
 除夜の鐘の聞こえない新年の幕開けは寂しい。祈りの無い心に鐘は響かない。心の寂寞を憂う。
 除夜の鐘は、百八つの人間の煩悩を除去し清めるための百八つ、昔から全国津津裏裏の寺々がついてきた。それを聴いて心が洗い清められ、新年を迎えた。
 毎日、私は朝の野を散歩する。枯れ野の背後に雪山がたたずむ。、午前7時、鐘の音が聞こえる。夕方も、野を歩く。午後五時、夕べの鐘の音が聞こえる。長く間をおいて、次の鐘の音が聞こえる。その間は次の鐘の音を待つ心、待てば次の鐘の音が響いてくる。
 ヨーロッパの街や村には、家々の屋根より高く、教会の尖塔が空に伸びていた。一日に何度か鐘が鳴り響いた。それは日本の仏教寺院の、余韻をおいてつく梵鐘の静けさよりも華麗な音色だ。フランクフルトの動物園で聞いた鐘の音は、ライオン園の真上から降り注いでくるような、動物園の隣の教会から響く大きな鐘の音だった。インスブルッグの教会の鐘は、すべての街の通りに祈りを届けるような音色だった。この音色を「うるさい」と感じる市民が増えるときがあるとすれば、何かが滅ぶ時だろう。
 それでも……、と思い返す。
 除夜の鐘を待つ人々が絶えることなんてない。人間の中に苦悩や悲哀や愛がある限り、祈りは絶えない。子どもの声の響かない社会を望む人がどんどん増えるなんてことはない。そう願う。