動物園へ行った

 朝からトラムに乗って家内と二人動物園へ出かけた。どこの停留場で降りたらいいか、乗り場にいた市民に聞いて路面電車に乗った。駅には駅名が書いてある。それを見逃さないようにドア近くに立つ。
「この駅だ」
 駅名を見て、近くにいた若者に確かめると、ZOOならここで降りて、向こうの通りを右へ歩いて10分ぐらいと言った。電車はその間、停車したまま待ってくれていた。若者が、運転手に発車させないように措置をしてくれていたらしい。
 朝のフランクフルト動物園は静かだった。人も少ない。入ってすぐに左手がインドライオンのテリトリーだ。へえー、インドにライオンがいたとは知らなかった。濠に囲まれたかなり広い台地にインドの自然がつくられ、二頭のインドライオンは、遠くを見ながら伏せていた。アフリカライオンに比べてたてがみの色が濃く、風格があった。
 背丈ほどの草がぼうぼうと生えているところがある。オオカミの暮らす草原だった。飼育員のおばさんが中に入って何かしている。オオカミはそれを知っていて、おばさんを観察しながら距離を取り、おばさんが動くと後をつけていた。おばさんもそれを知って、ときどき後ろを振りかえりながら出口から出ていった。このオオカミも風格があった。群れの動物のオオカミだが、いったい何頭ここにいるのだろう。ライオンの園もオオカミの園も、木立が取り囲んでおり、人間は木立の合間から中をのぞくという感じだ。ライオンやオオカミの側から周りがどう見えているか想像する。たぶん木立の外に人間がちらちらする程度で、気にならない、という感じなんじゃないか。

 柵やネットのない自由な鳥スペースで、ヒナを連れて歩いている鳥がいる。フラミンゴが群れている。野生のフラミンゴの群れの数にはとても及ばずさびしい。
 爬虫類館と水族館を合わせた「エキゾタリウム」ではガラス越しに珍しい動物を見る。アザラシ、ペンギンが泳ぐ。小動物がおもしろい。自分の住む穴の中から小石を口にくわえて一生懸命外に運び出している魚が、クリクリ目玉でかわいい。ハキリアリもせっせと木の葉を切り取って運んでいた。地下室に入っていくと、暗がりの中に夜行性動物を観察できるところもあった。ネズミの仲間が木登りをしている。

 午前10時に、近くの教会の鐘が鳴った。鐘の音はとても大きく感じられ、10分以上も鳴り響く。鐘の音に動物たちは驚かないかと思ったが、彼らはそれには慣れて、この街の住民同様にへっちゃらのようだ。この国の鐘の音は人間にとっては重要な文化、生きる環境でもある。
 動物園の動物は捕らわれの身ではある。が、できるかぎりふるさとの環境に近い棲み家を用意され、人とともに生きている。このことの是非は動物側と人間側とは意見が食い違うだろう。ここに4500の動物が生きる。その生命空間をつくることは、人間自身のあるべき環境をつくることでもある。動物たちの住む自然環境、すなわち土、空気、水、食べもの、音、植生、それらはここに住む彼らにとって適切なものか、好ましいものか。それらが吟味されながら、ここに生きる暮らしの場が用意されているはずである。それは、人間の生きる環境を考えることでもある。チェルノブイリ原発事故が起きたとき、放射性物質はヨーロッパ全土に流れ汚染した。そのとき、この動物園にも放射性ストロンチウムは落下しただろう。人間が開発した化学物質もまた、日ごと環境に影響を与えている。オゾン層の破壊、地球温暖化による気候変動、戦争による環境破壊、とめどもなく続く生命・生態系への攻撃。

 一方、野生動物たちのふるさとを見れば、アフリカのサバンナも、熱帯雨林も、人間によって攻撃され粉砕され、野生動物の安全な居住区も激減した。彼らの安住の地はありや。
 ZOOを考えるということは、地球環境から生物の環境、人間の環境を考えることに通じる。
 アムジークロウタドリ)が樹の枝にとまってさえずっている。お昼にまた教会の鐘が鳴り渡った。動物園の入口には長蛇の列ができていた。子どもたちを連れた家族連れが多い。鋭敏な感性を持ち、好奇心の塊である子どもたちが、ここで楽しみ、発見するものは数限りない。
 「沈黙の春」を著し、地球・人類の危機を訴えたレイチェル・カーソンが遺した文章がある。要約すると、

 「子どもたちの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にあふれている。子どもたちが、生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感覚をわかちあえるような大人が少なくとも一人、子どものかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子どもと一緒に再発見する必要がある。
 私は、子どもにとっても、子どもを教育しようと努力する親にとっても、『知る』ことは、『感じる』ことの半分の重要性さえももっていないと信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生みだす種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子を育む肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである。美的な感覚、新しい未知なものへの感激、思いやり、あわれみ、感嘆、愛情といった感情、このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになるはずである。それは永続的な意義を持っている。消化する能力がまだ備わっていない子どもに、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるようになるための道を切り開いてやることの方がはるかに大切である。」(ポール・ブルックスレイチェル・カーソン」上遠恵子訳)