3.11、午後2時46分


 3.11、午後2時46分、
 インドネシアのバンダアチェでは、国立第1中学校で追悼式典が開かれ、日本との連帯を呼びかけた。インドネシアでは、2004年の大地震・大津波で、22万人以上の犠牲者が出ている。子どもたちは黙祷をささげ、日本語の歌を歌い、人文字で漢字の「絆」の文字を作った。
 ドイツでは、各地で追悼デモが行われた。5万人が参加し、各地の原子力施設を人間の鎖で取り囲んだ。反原発の旗の中にひとつ日の丸があった。日の丸は、反原発の象徴とだった。
 フランスでは、6万人が、ライン川を超えて参加したドイツ人も加わり、行進し、手をつないで核施設を包囲した。
 ポーランドでも、原発建設に反対するデモがあった。
      http://www.flickr.com/photos/anti-atom-demo/

 パレスチナのガザ、子どもたちが1000人、凧を一斉にあげ、東日本の犠牲者を悼んだ。手づくりの凧のなかに、日の丸やパレスチナの旗があった。アラビア語で「日本」と書かれた凧もあった。

 3.11、午後2時46分、
 浜松球場の中日―巨人戦、中日の攻撃を中断して、黙祷を行なった。
 全国各地で、追悼の集会があった。祈りがあった。

 ぼくは空想した。
 お寺の梵鐘が風に乗って聞こえる。村人は、畑の中で静かに黙祷をしていた。
教会の鐘が鳴る。公園のハトが歩いている。ベンチの二人が立ち上がり、黙祷をしている。
 先生は授業をしていた。生徒の一人が言った。
「先生、2時46分です。黙祷しましょう」
 先生はうなずいた。
「しましょう。じゃあ、みんな起立しよう」
 生徒が言った。
「黙祷」


 3.11、午後2時46分、
 コトンコトン、電車が走っていく。
 黙ってケイタイを見ている人、本を読んでいる人、おしゃべりしている人。そのとき、車掌のアナウンスがあった。
「みなさん、2時46分です。その場で黙祷を捧げましょう」
 座っている人、立っている人、それぞれその場で、静かに目をつぶった。
 昔、実際にこんなできごとがあった。
 夜の10時ごろ、通勤電車のなかだった。残業や遠距離通勤に疲れた乗客は黙って目をつむっていた。つり革をにぎって立っている乗客は窓の外の暗がりを漫然と眺めていた。そのとき、車掌のアナウンスがあった。
「みなさん、窓の外を見ましょう。満月です。名月が美しいです」
 乗客たちは窓から空を見上げた。見ると、月が空にこうこうと輝いていた。車内の疲労によどんだ空気がとたんになごんだ。車掌が放送したのは、乗客の一人が、月があまりに美しかったから放送してくださいと、言ったからだった。この二人の機知、機転、心の自由度に感銘を受けた人がこのできごとを新聞に投書した。


 3.11、午後2時46分、
 ぼくは、薪づくりと清掃片付けに夢中になっていて、ころりと頭から抜けていた。なんとしたことか。
 安曇野のどこからも鐘の音が聞こえなかった。朝夕聞こえる鐘の音はなかった。無線放送による呼びかけもなかった。